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感傷も熟成して朽ちる

授業がひと段落した木曜日正午。心のドアをこんこんとノックすると、感じる余裕のなかった心とか感情がそろりと少しだけ顔を出してくる。彼らは素直には姿を表してくれない。大体、忙しない日常の中で置いてきぼりにされて構ってもらえていない感情たちだ:ひと昔の恋しい公園脇とか、都会の夜の飼い慣らされた川とか、そういう情景と感傷たち。彼らは大抵、地味な風呂敷に包まれてすまし顔で心の片隅に置かれている。自分たちの価値もわかっているけれど、放っておかれるのにも同じように慣れているからだ。彼らを引っ張り出して、脳みそのステージにあげて、思考するときは、その地味な風呂敷の硬い結び目をゆっくりとほぐして開けてあげないといけない。丁寧に包まれてしまわれた感情や心情を呼び起こす、そんな作業に、noteはちょうどいいかもしれない。何層にも包まれた感情たちが、一枚一枚その風呂敷を剥がす度に見せる色を、忘れないように書き留めていく。風呂敷を開けて中の小物をカメラの前に並べるYouTuberみたいに、一つ一つの特徴を取り出してはnoteに書き留める。感情を並べる。感じる。経験を、再発見する。

穏やかな空間がある。最近、ある坂下のカフェ、2階テラス席のことをよく考える。東京の実家の近くには大きな公園がある。木が多く立っていて夏になるといち早く蝉たちが集まってきては大合唱を始める。小さい頃はそれが普通の夏の音だと思っていたけれど、あんなに蝉の鳴き声が響く街は珍しい。住宅街とかスクランブル交差点とかは、住居とか雑踏とか、一つの概念を全振りで象徴する。けれどあの街のあの一角は、森と街が綺麗に交わって優雅な新しい空間ができている。そうだな、中世の城の近くの森で自分の何倍ものカサのドレスを纏う貴族たちが集って行うティーパーティーみたいな。(そこに東洋の味を何振りかかけるといいかもしれない)その大きな公園は丘の斜面に沿って在る。その丘下にある、イタリア初のコーヒーチェーン。外国人もよく見かける。その2階、テラス席の端。その空間と時間をよく思い出す:目的もなくボーッとみつめた電柱の先っぽ、所々錆びついた先端と所狭しと巻きつく電線をみて「なんかエモいね」というと「それ写真撮ったことある気がする」と言われたこと。2階席から撮ったカフェの看板の写真も、なんてことないのになんだかいい味が出ている気すらする。そんな春の草原のような時間を腹の下に抱えている。

もしかしたらあの空間に縋っている。あの心地よい、朝9時の日光みたいな優しい空間にお布団みたいにくるまって出たくない。あぁ、でもそんなことをしている間にも世界は止まってくれない。スクランブル交差点では、47秒しかない青信号で歩行者がひしめいているし、向かいのビルに写る私の部屋の影は日が高くなるごとに短くなって、また長くなって、短くなる。お布団に感情のお布団にくるまっている間に世界は蠢いて、回って、流れて、変わって。私の髪も伸びて、お腹が空いて、いっぱいになって、体はもう少しだけ成熟してから衰え始める。お布団にくるまった私の心だけ、止まっている。いや、徐々に腐っていく。大切に取っておきたかった記憶も、感情も、抱きしめてなめくりまわしている間に熟れて熟れて腐っていく。だからきっと思い出は、感傷は、風呂敷に包んで押し入れに納めておく。または食べ切ってしまう。

離しきれない思い出たちを食べる。消化する。養分を蓄えて身とする。残りはさようならといって別れる。腐らせてしまってはもったいない。

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