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フッと思いついて

韓国について数週間が経った。毎日のリズムも徐々に安定してくる。朝起きてすぐに授業を受ける。近所の八百屋さんで買った野菜を切ってサラダを作り、フライパンにバターをひいてトーストを焼く。カフェに行ったり行かなかったりして、夜になる。クラスメートと少し会話をしたりネットフリックで話題の韓流ドラマを見たりして寝る。毎夜、なぜかとても疲れているので夢を見ることもなく気づけば翌日になっている。そんなことの繰り返し。

一年目はサンフランシスコで暮らした。スラム街の端っこに位置した寮では、最寄りのバーガーキングに行くのさえ心を引き締めて寮の玄関を出たものだ。緊張感とか、精神に対するスパイスには事欠かなかった気がする。ソウルは一変して安全だ。路上でペッパースプレーをかけられることも見知らぬ輩にタックルされることもない。無害な酔っ払いのおっちゃんやカップルたちが今日も日本によく似た街並みを歩いている。人々は信じられないくらい優しい。今日トッポギを買った屋台のおばさんなんかは親戚のおばさんなみに甘辛ソースの垂れ具合を心配していた。大丈夫だけどなー笑。

目まぐるしく姿を変える毎日になれすぎて、こんな「いわゆる大学生」の生活に正直驚きを隠せずにいる。私の日常はなんだか平坦だなぁと思うことがある。慣れとは怖いもので韓国の隔離を終え、ソウルについて二週間、私はもう既にこの日常を単調だと思い始めている。

毎日が単調でつまらないなぁと思い始めた節に急に見たことのないような事柄が波のように押しかけてきたりするから不思議だ。綺麗に分散してくれればいいのに。

刺激の多い日常は多くのことを私たちから奪い去ってしまう、多くの大切なことを振り返る時間のないまま頭の隅っこで腐らせてしまう。出来事とは消化しないと頭の隅っこで変な匂いを放って動いてくれなかったりする。腐敗した思い出や感傷や出来事が頭の中で積み重なって、変な匂いを放っている。そんなときにはnoteを開いてその腐った思い出たちの言わんとすることを紐解いてみる、または紐解く努力をする。

前頭葉に落ち葉をぎゅうぎゅう詰めにしたような、よくわからない脳の窮屈さを感じている。落ち葉を一つ一つ燃やしていけば、それはやがて消化されて私のものになるのでしょうか。わからないけれど。

そういえば、このノートには、フッと思った。私の経験のありがたさとこの瞬間瞬間の愛おしさを綴ろうと思ったのだ。梨泰院の端、サンフランシスコの匂いが少しするカフェ。そこのソファ席。ゆっくり流れる太陽の音楽。白いシャツを着た店員さん。その空間でパソコンに向き合うひとたち。何人が、この瞬間と向き合っているのだろう。私たちは忙しない毎日の中にあまりにたくさんのものを置いてけぼりにしてしまっている。カフェで読書をしているつもりでも、心のどこかで昨日の失言のことを考えている。どこかで他人のことを考えている。この瞬間を生きているつもりでいる私たちは、実際、とても多くの場合、この瞬間を生きれてはいないのだと思う。「心ここにあらず」とはよくいったものだ。ただ最近、私たちは「心あらず」の状態で1日を初め、1日を終える気さえする。最後に何かに溺れるほど没頭したのはいつだろうか。最後に無心で街を走り抜けたのは、目の前にいる人だけを見つめて会話をしたのは、街の喧騒を五感の全てをつかって感じたのはいつだろうか。癖のように携帯を拾って、電源を入れれば自分の全交友関係からの通知が表示される日常では、頭の片隅にいつも「ここにはいない誰か」がいる。「心ここに在」るかもしれないが、心のかけらはいつも何かに囚われている。最近それを顕著に感じる。

「つまらない」と感じる日常さえも、五感の全てを通して感じたら違う景色を見せるに違いない。そんな気がする。適当だけれど。

フッと思いついて書き始めたノートだ。フッと終わろうかな。

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