恋愛を化学式として
人をみて、「あぁ、この人がどうしようもなく好きだなぁ」と思ったことがない。どうやら人の全てをひっくるめて好きになれないタイプの人間みたいだ。いいところと悪いところは表裏一体だし、自分がみているその人は、自分と一緒にいる時のその人でしかないのだろうから、私がその人の全てを勝手に決めつけて好きだとか嫌いとかいうのはなんだか違うのかなぁと思う。
結局のところ、人は、どの事象においても、完全に客観的な答えを見つけることはできないのだと思う。例えば、A君のことを私が好きだとする。A君が素晴らしい人だというのは私からすれば主観的事実であるが、客観的事実ではない。もしかしたらA君は興味のない分野に関してはズボラな人間で、私はそれを「はっきりとしていて好き」と思うかもしれないが、一緒に仕事をする人からみれば、飽き性なやつになってしまう。つまり、A君が素晴らしい人間であるか否か、ないしは最低の人間であるか否かは、私の状態によって左右されるのである。私がA君のことが好きならば、A君が人間史上最善の人間に見えるかもしれない。ただ、こっぴどく振られた瞬間A君は人間史上最低の人間に落ちぶれるのだろう。これは、具体性に欠ける全ての形容詞に共通して言えることだと思う。「正直な人」であることは、他の視点から見れば「不器用な人」かもしれない。「世渡り上手」は「浅ましい」かもしれない。つまり、なにが言いたいかというと、こういうことを頭の隅で考えている間は、人のことをまるっと全部愛することはできないんじゃないかと思うのだ。
では、どうやって人を好きになるのか。結論から言えば、私は人は好きにならない。もちろん、友達に恋愛相談をするときは「この人が好きなんだよ」と言う:シンプルにわかりやすいので。ただ、厳密に言えば、私たちは誰も、人を好きだ嫌いだと言えるほどの知見を(その人に関して)持ち合わせていないと思うのだ。ただ、社会的な人間として生きる以上、人と関わることが必要になっていく。そして出会う人間の中で仲良い人とそこまで仲の良くない人を選別しないといけなくなる。それに、人は一緒にいて心地が良い人とお近づきになりたいものだ。だから、私は、その人がいる空間を好きになる。私とその人の化学反応をどうしようもなく好きになる。人間関係は全て化学反応だと思う。酸素は、単体で見れば燃焼の燃料だけれど、水素とくっつけば、生物に必要不可欠な水になるし、炭素とくっつけば地球に優しくない二酸化炭素になる。要は、人間、関わる人間によって全く異なる化学反応を示す。私たちは常に、水になりたいのか二酸化炭素になりたいのかの選択をして友達を選んでいるのだと思う。それを本能レベルで感じるのが恋愛だ。だから恋愛って面白いなぁと思う。
普段ならば、水素系の人間とお付き合いしたいのに、急に炭素系の人間と付き合いたくなったりしゃうからだ。なんなら一人だけとくっついて一酸化炭素になってしまう、害悪なことこの上ない。好きな人ができたら、その人のことを考える自分を見つけて「どうやら私はこの人が好きらしい」と結論づける。どうやら私は、この人と一酸化炭素の化学反応を起こしたいらしい。
そうやって好きとか嫌いとか学ぶのかもしれない