アートと社会(弱者)
最近どうやら家でじっとしていられない病気を患ったらしい。昼ならまだだらだらしていられるのだけれど、どうにも夜になると心がむずむずして家から弾き出たくなる。そんなこんなで人が捕まらないときは美術館に出向いた。マイノリティのアーティストのコレクションで、アーティストの人と成り、そして彼らの作品にフォーカスを当てたものだ。
行動に頭がついていかないことがある。感情に頭がついていかないことがある。最近の私はそうだ。外に出たい、人に会いたい、新しい感情を知りたい。重い、寂しい、緩やかに楽しい、ほんわりと続けたい:やりたいとか思いとかは直感的にある、だって感じる。ただ、脳と行動が仕組みと表現であるように、心と感情の認知も乖離している。心が発する色を私たちは認知する。認知するけれど、心のメカニズムなどわかりっこない:なぜ無性に海のさざなみに惹かれるのだろう、なぜ焚き火をみるとふとたちどまってしまうのだろう、なぜガスコンロの青と橙のまざりあった炎は安堵を呼ぶのだろう。そんなことわかりっこない。
そんなことたちをわかろうとするのがアートなのだろう。なんで私たちは海のさざなみに惹かれるのだろう?さざなみの何がすき?あの細かい目視できない水飛沫の小さな小さな水滴たち?それとも水滴たちが擦れ合うような波音?それとも海と大地の落合?なんだかその全てが好きな気がする:それら全ての複合体がすき。
きっとでもあの人は海に映る空の色が好きなのかもしれない。あぁ、あの人は夜の海の吸い込まれてどこまでも落ちていってしまいそうな底無しの吸引力が好きだと言っていた。私は、海の、あの、どこまででも連れていってくれそうでなにか誰1人としてみたことがないものを連れてきてくれそうな壮大なワクワク感が好きだ。
三人を同じ海岸に連れていく。はい、海について何かかいてください(書でも描でも)っていったら違う海ができる。私たちはいっつもおんなじ現実をみているようで、きっと少しだけ違う現実をみている。視覚とか聴覚とか嗅覚とかはみんなが共有する現実だけれど、私の中の現実はそれとは少し違う:私の色がついている。それがどうしようもなくわくわくする。
今日の美術館展示で何度も泣きそうになったのはきっとそういうことだ。マイノリティのアーティストたち、社会に迎合しては自身が壊れてしまう人たちの色を通してみる現実は、儚くて繊細で勇敢で大胆だった。現実を綺麗に描いた作品とか概念を面白く落とし込んだ作品とは別の、強烈な色がついている。それをみて私は、あぁ、東京で感じていた喪失感はこれだったのだ、と思った。この感覚を私は失っていた。
あの大きな展示場に溢れていた色はどうしようもなく私の涙腺を引っ張った。あぁなりたいかどうか、私にはまだわからないけれど。