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「成長」しなきゃいけない?「成長」=好きな自分に近づくこと、だったらどうか〜note1002日目
「成長」が、私は大好きです。
できなかったことができるようになったり。
前よりもっと上手くできるようになったり。
前とは違う視点、大きな視点に立てたり。
前よりもっと良い結論が出せたり。
「成長」とは何を指すか具体的にあげるとしたら、私がぱっと思いつくのはそんな感じです。
では、なぜ「成長」が好きかというと、どんな問題やつまづきがあっても、それを何とかする力が強くなることが「成長」だと思っているからです。
何か困ったことがあった時に、「困ったままではいたくない」という気持ちが、私にはあります。
少しでも、そこから脱したい。
少しでも、居心地のよい状態にしたい。
そのためには、何かのアクション、例えば新しいことを知る、試す、やってみる、などを通して、「成長」する。
すると、その困った状態から少しでも抜け出せる。
だから、私は、「成長」というものが好きだし、実際、アクションもするのだと思います。
ですが今回、「成長」について、あらためて考える機会がありました。
「成長」はよいもの、「成長」しようとするのが当たり前だとする捉え方は、暴力にもなりうる、ということです。
ある言葉に対する自分の定義を、万人に当たり前のものと決めつけて、周りの人に話すのは、それだけで、ある種の暴力だと私は思います。
「りんごは赤い」ということでも、それに該当すると思いますが、そのある言葉が、世の中的に圧が強めの言葉、たとえば「成長」だと、その度合いはさらに増します。
自分が思い込んでいる「当たり前」のすべてに気がつくことはなかなかできませんが、そういう圧が強めの言葉をあつかうときは、なるべく気がつくように自分をもっていかないと、と思います。
そしてそれは、周りの人を相手にする時だけではなく、自分もちゃんとカウントしないと、ということに、今日あらためて気が付きました。
きっかけは、そろそろ通常通りの予定がこなせるだろうと思って外出したところ、喉の痛みと倦怠感と眠気がおさえられず、途中でリタイアしてしまったことです。
行くかどうか、かなり悩みました。
悩んだ時は、私は、どちらの行動をする自分が好きかを判断軸にすることが多く、行く自分のほうが好きだなと思ったので外出したのですが、結果うまくいきませんでした。
うーん、自分だめだ。
と、思っていたところ、ふと、その「成長」の圧のことを思い出したのです。
あ、私いま、「成長」できなかったと自分にダメだししてるな、と気がつきました。
自分に対して、圧が高めになっていたのです。
そこで、自分がほんとうにだめだったかを、自分にたずねてみました。
私はこれまで、こういうイベントごとで、途中でリタイアすることはほとんどありませんでした。
仮に、行くまでは気の進まないものであっても、行って人と会えば楽しく、結果行ってよかったとなることがほとんどです。
それが、中座のごあいさつもして、途中でリタイアをした。
これも、ある意味「できなかったことができた」ことなのでは、と思ったのです。
とはいえ、それを「成長」というには、自分の気持ちはOKを出しません。
でも、これはリタイアしたほうがよいかも、と自分で思った時に、なるべくご迷惑をおかけしない形でスマートに失礼できる自分と、無理をして後で体調を悪化させるかもしれない自分とを比べたら、前の自分が好きかも、と思えたのです。
「成長」は、できないことができるようになったりするという右肩上がりのイメージが強いものかもしれません。
心が強いときはそれでOKですが、そうではない時には、少しでも好きな自分に近づくこと、それも圧が強ければ、少しでもこれからが居心地よくなること、と捉え直してもよいかもしれません。
少なくとも、今日の私にはお薬になった捉え方でした。