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気づいたことは、やるべきこと≒良知
今朝、大先達にこんな言葉をかけて頂いた。
「気づいたことは、やるべきこと」
雷に打たれたように、「それは真実だ」と思った。
自分のひとつの軸にしたいので、ここに留めておく。
その言葉は、今日早朝、地元のお寺の清掃活動に参加したあとに頂いた。
参加したきっかけは、地元の倫理法人会という集まりに入ることに決め、モーニングセミナーという朝活に出席したら、土曜にお寺の境内を掃除するのでよかったら、と声をかけてもらったことだ。
※倫理法人会はこんな組織です
新年から倫理法人会に入ろうと思ったのも直感に近かったが、その朝清掃も、なんとなく直感で「行きます」と答えていた。
そして、今朝5:30に起きての活動となったのである。
お寺にお参りし、お掃除のあとは、地元の喫茶店での朝ごはんがルーティンだそうだ。
その朝ごはんの時、新入会だった私に気を遣ってくれて先輩がいろいろ話を聞いてくれ、その時、上の言葉をもらったのだった。
「会に入ろうと思ったのも、清掃に来ようと思ったのも、そう気づいたのならやるべき。だから、ちゃんとやれてよかったね」と。
気づいたのなら、やるべき。
それは、本当にそうだと思った。
だが、人は時として、気づいてもできない、やらないことがある。
陽明学に「良知」という言葉がある。
「良知」とは、人が感覚的に、「こういう時はこうしたほうがいい」「本当はこういうことはしないほうがいい」ということを、知っているということ。
電車の中で座っていて、高齢者の方が目の前に立つと眠ったふりをする人がいる。
その人はその人なりの事情があるかもそれないのでその善し悪しは問わないが、ひとつ言えることは、その寝たふりをした人は、「本当は席を譲ったほうがいい」と知っていることだ。
赤信号を渡ることにためらいがあったり、何かルール違反をして気がとがめるのは、「本当はこういうことはしないほうがいい」と知っているということだ。
つまり、本当はやったほうがいい、本当はやらないほうがいい、ということを、えてして私たちは気づいている。
そして、気づいていたとしても、その気づきの通りできないということも、あるのだ。
気づいたことをすべてやるべき、とまでは言わない。
制度の隙間でズルをすることを思いつくのも、ひとつの気づきだからだ。
気づきの定義を「やったほうがいい」「やらないほうがいい」という良知と重ね合わせると、定義がよりクリアになる。
今日掃除を終えたあとも、家のなかでちょっと気になる汚れに気がついてしまったとき、
「この気づきはやるべきほうだな」
と思ってさっと掃除したら、気持ちよかった。
やるべきことだとわかっているなら、そこで踏みとどまるのはエネルギーと時間の無駄遣い。
やるべきと気づいたら、間髪をいれずに動けるよう、今日から訓練していくことにする。