ナイト・オブ・シンクロニシティ:後編(カルマティックあげるよ ♯150)
不思議な一夜の記録、後編。
真夜中の田舎道を、僕ら3人を乗せたジムニーは進んでいった。先ほどまで走っていた車通りの激しいバイパスとは打って変わって、周囲を走る車はほとんど見当たらない。時折対向車がビームライトに照らされながらすれ違っていくだけだ。あたりは田舎によくある敷地の広い民家ばかりで、すでに灯りを消している家も多く、点灯している家も広い庭ゆえ光は遠くに見えたのだった。植木が趣味の人が多いのか、家屋の敷地内には様々なフォルムの木が植えられていた。日中ならのどかな光景なのだろうが、少ない街灯と信号機だけが儚げに光る闇に包まれた世界では、樹木の緑の色彩は消え失せ歪んだシルエットだけがにじむように薄暗く浮かんでいた。それらは不気味なお化けのようにも見えた。僕は車に乗りながらだんだんと別世界に飛ばされていくような感覚を覚えていた。そこには不穏な気持ちと同時に不思議な心地よさも同居していた。エツとトシは互いに他愛もない会話を交わしている様子だったが、僕はほとんど無言で得体の知れないトリップ感に浸っていたのだった。
目的地である山寺までの道はほとんど一直線だった。暗い道中なれどおかげで迷う心配はない。そう思ってはいたのだが。
バイパスを曲がってから20分程走った頃、現地に近づいてきたのか、山寺という地名が名につく旅館や食堂らしき施設の看板の数々が、ライトに照らされちらほら目につくようになってきた。しかし相変わらず道は暗い。観光客向けと思しき施設も、ほとんどが入り口側の照明を既に落としていた。
「…う〜ん、この辺のはずなんだけどな〜」
トシが口を開き、エツが答える。
「だよね〜。でも暗すぎてわかんねーや。」
エツもトシも過去に来たことがあるらしいが、二人とも迷っている様子だった。話によると山寺は境内の入り口が長い石段となっており道路に面してるそうなのだが、行けども行けどもそんなRPGのダンジョンライクな石段は見当たらなかった。しつこく書くが当時はスマホで手軽にナビアプリを開けるような時代ではない。あいにくカーナビも搭載されてない。地図帳すら持ってない。こうなると案内標識と野生の勘が頼りなのだが、現場付近ではあてにできるような標識は見当たらず、そして皆の野生の勘もこの時はハズレだったようでひたすらグルグルぐるぐる車を走らせる時間が続いた。そしてそう時が経たないうちに、僕らは山寺へのお参りを潔くあきらめた。道に迷うのは先ほどの温泉街でコリゴリだったからである。
車窓から少し遠くに目立つ灯りが見えた。近づいてみると鉄道の駅舎だった。景観にマッチするように設計された寺社造りの駅舎の中に待合室があり、そこの照明がついていたのだった。せっかくここまで来たのだから入って一休みしていこうと、僕らは近くに車を停め、和風のガラス引き戸の入り口をガラガラと開け駅舎の待合室内へと入ったのだった。
既に時刻は深夜0時をまわっており、田舎の路線ゆえとっくに終電も過ぎたであろう時刻で、僕ら以外に人影は見当たらなかった。乗客はおろか駅員の姿すら見られない。それでも待合室は開放されているのだった。土日の昼間は寺への参拝客で賑わうのだろうが、夜中はとても静かだ。こんな夜更けに駅内でウロウロしてる僕らは側から見れば確実に不審者であっただろう。
待合室は古民家を意識した内装で、床から段差のつけられたお座敷の上にはクラシックな装いの座布団がたくさん並べられていた。壁には観光ポスターだのここら辺を撮影した写真だの、ありがちな展示物が色々と飾られていた。
「見て、にゃんこがいるよ!」
エツが近くにあった改札窓口の方を指差して言った。目をやると既にシャッターが降ろされた受付カウンターの上に、ずんぐりとした体型の猫が座っていた。
首輪はなく、誰かに飼われている様子でもない。この駅周辺を縄張りにしている野良猫だろうか。尻尾を巻いて座り、僕らを警戒するような鋭い目つきで凝視していた。しかし距離が近いのに逃げようとする様子はなかった。
にらめっこの時間に終止符を打ったのはトシだった。彼は猫にゆっくり近づくと、毛でフカフカと覆われた背中を撫で始めたのだった。
猫は気持ちよいのか、うっとりした表情でうつむきながら背中を撫でるトシの手に身を任せていた。思ったより人に慣れている様子だった。しばらくすると撫でられるのに飽きたのか、すくっと立ち上がりピョンっと飛び跳ね、しなやかな動きで床に着地した。そしてヨタヨタと歩き始めた。
僕らは3人とも猫は好きだ。僕は姿勢を低くすると猫の警戒心を緩められることを知っていたので、少し近づいてしゃがんでみた。すると目論見通りというべきか、猫は途端に僕の方に向かって歩み寄ってきて、しゃがんだ僕の股の中にもぐりこむと脚の匂いをクンクン嗅ぎ始めたのだった。間近な距離ゆえ漂う野良猫ならではのワイルドな体臭が僕の鼻をツンとついた。けれどそんなことも思わず許してしまうほど愛くるしかった。
他の二人は笑いながら僕と猫を見ていた。そのうち猫が僕の股間のど真ん中に鼻をつけ匂いを嗅ぎ出したので、さすがに僕も恥ずかしくなって立ち上がった。すると猫は座敷の座布団に座って休み始めたトシの方に目をつけたのか、今度は彼の方に向かっていた。
猫はジャンプしてトシの太ももの上に着地し、しばし服の匂いをクンクンと嗅いだ後、その場でゴロンと寝転んだ。そして小声でウナウナ鳴きながら前足を伸ばし、トシのはいているジーンズを爪でパリパリひっかき始めたのだった。
「イタイッ!イタイッ!!そしてクサイッ!!」
トシは悲鳴をあげつつも笑っていた。爪をたててはいるものの、攻撃するというよりは明らかに甘えている様子だった。成猫が人に対して前足でもむような動作をする時は、親に甘えていた子猫の頃を思い出しているのだと聞いたことがある。あの猫はトシに親の面影を感じていたのだろうか。とても微笑ましい光景で、僕もエツもその様子を写メに収めたりしながら、にこやかに見守っていた。
「あはは、トシにめっちゃ懐いてる!これ動画に撮っとこう!ちょっと車からカメラ持ってくるね!」
エツはそう言って、待合室を出て車へと向かっていった。車にはビデオカメラが積んである。なぜそんな物があるんだと疑問に思われるだろうが、これでも僕らは映像を学んでいる学生だ。生活している中で気になる光景を見たらいつでも撮影できるようにと、ビデオカメラを持ち歩くのはペンを持ち歩くのと同じくらい僕らにとって当たり前のことだったのだ。今ならコンパクトなスマートフォンで手軽に高画質な映像が撮れるが、当時はそんな物なかったので重たいビデオカメラをひーこら持ち歩いていたわけだ。
当時使っていたカメラはmini DVという規格のテープ式メディアに記録するタイプだった。カセットの中に巻かれ収納された磁気テープに、撮影した映像がデジタル信号で記録される。撮り終わって映像を確認したい時はテープを巻き戻して、カメラについている液晶ディスプレイで再生確認できる。テープ式メディアのカメラで撮影する際に注意すべき点は、撮影する前にきちんとテープを再生確認して、録画の開始位置を未撮影部分の頭にしっかり合わせておくことだ。これを怠ると、既に記録された大切な映像を上書き録画して潰してしまったりする。メモリーカードが主流となった現代ではしなくなった苦労だ。
間も無くエツがごつい外観のDCR-VX2000を抱えて戻ってきた。大学からレンタルしてきた当時ではハイスペックな機種だった。
「ちょっと待って。これ今日借りてきたばかりのカメラだから、今から自分のテープ入れるね。」
エツはそう言いながら、カメラのカセット入れを開けた。その中を見た彼は途端に怪訝な表情になって言った。
「……中に前に借りてた人のテープが入ってるわ。誰のだろ?再生してみよ。」
大学のシステム上、同じカメラを複数の学生がレンタルしては返却してローテーションで利用しているのだが、たまに撮影したテープを中に入れたまま返却してしまうウッカリさんがいるのだ。管理者側が気づいた場合は抜き出されて持ち主に返却されるのだが、たまにこうして見逃されてしまうことがある。
エツはそのままフタをしめ、再生ボタンを押してどんな映像が入っているのかディスプレイを見ながら確認し始めた。僕も興が湧いたので隣に立って見ることにした。
再生された画面には、1匹の猫が映っていた。三毛猫だった。撮影場所は壁面のタイルの様子から見てどこぞの家の浴室みたいだ。カメラの中に時々撮影者の脚や腕が映りこんで、そこに猫がじゃれついている。顔こそわからないが体のパーツの見た目からして撮影者は男性みたいだ。自宅で猫と触れ合う様子でも撮影していたのだろうか。
しばらくして猫は浴室から出ていき、カメラもそれを追っていった。居間らしき畳敷きの和室へと場所が移った。畳の上を猫がのそのそ歩き回る光景が撮られている。すると突然カメラが畳の上に置かれカメラワークが固定された。画面奥に映る座布団の上に撮影者らしき人が移動してきて座り、顔が見えた。その顔を見たエツと僕は驚愕した。そこに映っていたのはなんとトシだったのだ。
すると映像の中のトシの脚の上に猫が駆け寄ってきて寝転んだ。トシのあぐらの上で気持ちよさそうにくつろいでいる。そして今、僕らの目の前にいるリアル世界のトシも、同じように別の猫を脚の上に乗せてくつろがせているのだ。これまた驚くべきシンクロニシティだった。
「トシ、ちょっとこれ見てよ!」
エツはすかさずトシに声をかけ、カメラのディスプレイを彼に近づけて見せた。トシはきょとんとした顔をしながら見ていたが、やがて笑い出した。
「いけねえ、テープ入れたまま返しちゃった。」
トシが大学からレンタルしたカメラで撮影後、テープを入れたまま返却してしまい、その後テープが抜かれることなく偶然エツの手に渡っていたのだ。トシの話によると、録画された映像は実家に帰った時に撮影したものらしい。映っていた三毛猫は実家の飼い猫なのだそうだ。思わぬシンクロニシティに、また僕らは揃って笑ってしまった。しかし僕は密かに、ここまでシンクロ二ティが短時間で連続して起こった偶然性に対し、見えざる何者かの力が働いているかのような奇妙な感触を覚えていた。
エツは自分のテープと入れ替えカメラを回し始めたものの、野良猫はトシの太ももの上にいるのが飽きたのかそれともカメラが嫌いなのか、ムクッと起き上がるとジャンプして床に飛び降り、待合室の隅の方へと逃げていった。そして振り返るとこちらをじっと見つめていた。
僕らは猫に軽く手を振って別れの挨拶を告げると、駅舎を出た。車に乗りこんだ僕らはうなるエンジン音と共に出発し、今度こそ帰路についたのだった。
目の前で起きていることと、再生した記録映像の中で起きていることがリアルタイムで偶然シンクロするなんて、ありえるだろうか?しかも双方ともそこにいるのはトシという同じ人物だ。数々のシンクロニシティが起きた夜のドライブだったが、あの駅の中で見たそれは偶然に偶然が重なった、まさに奇跡と呼んでいいものだった。山寺へのお参りはできなかったが、ある意味それ以上の貴重な体験ができてしまったと言える。エツはハンドルを切りながら嬉しそうに言った。
「さっきのもすごいシンクロニシティだったよ!今日はほんと不思議な日だわ!」
これだけシンクロニシティが連続して起こっても、恐怖など感じず、むしろラッキーと思ってしまうのがエツの性分なのかもしれない。様子からしてトシも同じような印象だ。僕も見習って、この奇妙なハプニングを楽しんで受け入れることにした。もはやシンクロニシティ慣れしてしまったのかもしれない。
しかし不思議な現象はこれだけでは終わらなかった。
来た道を戻り再び大きなバイパスに出て南へと走り抜け、僕らは自分たちが住んでいる地域へと戻った。車中にて、今度はトシの部屋でゆっくりしていこうぜという話になり、彼のアパートの駐車場に車を停め僕とエツは図々しくお邪魔したのだった。こうして3人でゆっくり過ごせる時間も、大学生活があと数日で終わろうとしている現在、もう残りわずかだ。
トシの部屋はおしゃれな空間で居心地がよく、長らく僕らの憩いの場だった。白熱灯の柔らかい光が室内を照らし、アロマオイルの香りが宙を舞い、ステレオからはトシがセレクトしたジャズやクラブ・ミュージックが鳴り響く。暇になればみんなでプレイステーションで遊べる。最高だ。
既に時刻は深夜2時前後。3人でこたつを囲んで、コンビニで買った安いお菓子をつまみながらお茶を飲み、まったりくつろいでいた。数時間に渡るドライブで若干疲れていたのか、皆静かな様子であった。
ふとトシが思い出したような口調で言った。
「そうだ!こないだ中古ビデオで買った映画がシュールな感じでやばかったんだよ。見てみない?」
そして数々のビデオソフトが収納されたケースの中から1本のVHSソフトを取り出した。つぶらな瞳の白人女性の写真がアップで切り取られた、これまたオシャレな感じのパッケージだ。『ブラック・ムーン』というタイトルの映画だった。
パッケージ裏面には映画のシーンのキャプチャが数枚印刷されていた。その中の1枚にたくさんの軍服姿の兵士達と、彼らに囲まれる巨大な装甲車の写真があった。装甲車は人の背丈ほどのタイヤを持ち、角ばった装甲の上に6本もの砲塔を備えているという、なんともいかつくて少年心をくすぐるデザインだった。メタルスラッグとかああいうSFアクションゲームに登場してきそうなビジュアルだ。そんな装甲車と兵士たちが、広い道路の上で黄色い朝焼けに照らされ佇んでいるという写真だった。なかなか幻想的でクールなキャプチャだった。
トシの話によると、あるビデオ屋にて販売に回されたレンタル落ち中古ビデオが並んでいる棚を物色していたところこのソフトを見つけ、裏面の装甲車のキャプチャからクールな近未来SF映画だと思ってジャケ買いしたとのことだった。たしかにこのキャプチャはかっこいい。購入価格はわずか100円程度とのこと。たたき売りにも程があるが、これでアタリだったら掘り出し物である。
僕もエツも興味が湧いたので一緒に見ることにした。当時はまだ世の多くの学生宅にVHSビデオデッキがある時代だった。テープがデッキにウィーン、ガチャンと響く機械音と共に吸い込まれ、再生ボタンが押された。VHS特有のザラついたノイズがテレビ画面に走り、冒頭のシーンが始まった。
森に囲まれたアスファルトの道路の上で、1匹のアナグマがくんくんと道に鼻をつけ匂いをかぎながらヨタヨタ歩いている。画面の粒状感からしてカラーフィルムで撮られたやや古い映画みたいだ。トシの話によると1970年代に製作された作品らしい。しばらくすると道の彼方からオレンジ色のレトロな自動車が一目散に走ってきて、そのままアナグマを轢き殺した。動物虐待も甚だしい幕開けだった。
車にはつぶらな瞳の女性が乗っている。パッケージに大きく顔が写っている人で、どうやらこの映画の主人公のようだ。彼女は轢き殺したアナグマをしばし無表情で見つめると、再び車のエンジンをふかし走り出した。しばらく進むと巨大な装甲車が目前に現れ道を塞いでいる。パッケージ裏面のキャプチャに載っている例の装甲車だ。装甲車の周辺では銃を構えた多数の男の兵士がうろつきあたりを警戒している。主人公が車内から様子を伺っていると、彼らは捕虜にしたらしき軍服姿の女性兵士数人を並ばせ、銃殺した。
かいつまんで説明するとこの映画の中の世界では男と女が戦争状態に陥っていて、互いに見つけては殺そうとしているのだ。それ故女性である主人公も戦車の近くで検問を行っていた男兵士に見つかりピンチに陥るのだが、危機一髪車を急スタートさせ逃げおおせる。女性の軍も大人しくしているわけでなく、この後に女性兵士達が男の兵を囲んで笑いながら蹴飛ばしてリンチにするシーンも出てきたりする。
やがて車は故障し、やむなく主人公は取り囲まれた森の中をさまよい歩くのだが、うねうね這うでっかいヤスデに出くわしたり寝転んで休んでる最中ヘビに巻きつかれたりとハードな道中を過ごす。カメラワークもわざわざヤスデをアップで撮ってたりするのでなかなか気色悪い。そして困惑した表情で歩き続ける主人公の前に、突然ユニコーンが姿を現す。ユニコーンとはヨーロッパに伝わる伝説上の生き物で、姿は馬に似ているが額に長く大きな角を生やしているのが特徴だ。絵画やイラストでは筋骨隆々としながらもスラッとした美しい肉体美のビジュアルで描かれることが多い。しかし映画の中に出てくるユニコーンはずんぐりむっくりとしたメタボ体型のポニーのような小柄な馬にハリボテの角をつけただけの何ともしょぼくれたルックスで、見ているこちらが拍子抜けしてしまう程だった。主人公は逃げ出すユニコーンの後を走って追いかけるが見失う。しかし辿りついた先にはまるで貴族が住んでいるかのような巨大なお屋敷があるのだった…。
序盤はこんな流れである。ストーリー的にSFにはなるのかもしれないが主人公の服装も車も70年代調のレトロなもので、件の装甲車のシーン以外はほとんど未来的な感じはしない。せっかくキャプチャに採用された装甲車もほんの数分出てきただけで、結局停車したまま動きもしなかった。お粗末な風体なれどユニコーンや近代ヨーロッパ風の洋館などが出てくるので、むしろどちらかと言えばファンタジーに近い印象だ。しかしエンタメ映画的なわかりやすい会話シーンもなく、様々なエレメンツが次々と意味もなく唐突に登場しては消えていく、不可解な展開のつなぎ合わせで構成されたような映画だった。たしかにトシが言う通りシュールな世界観の作品だ。アーティスティックなシネマとしてカテゴライズされるものかもしれない。ただ筋道のよくわからない展開とオフ・ビートなテンポの演出は鑑賞していて集中力を削られるもので、僕は観ていてだんだんと眠くなってきてしまった。
その後、女性は突然目の前に現れたお屋敷の中へと吸い込まれるように入っていくのだが、僕はこのシーンに差し掛かったあたりで睡魔に耐えられなくなり、紹介してくれたトシには悪いが一旦眠ることにした。
「ごめん、ちょっと寝るわ。」と二人に断り、こたつの中に下半身を突っ込んだまま倒れるように横になり、まどろみの中に落ちていった。
目が覚めた。白熱灯に照らされた天井が目に入ってきた。映画はとっくに終わってしまったようで、無音の室内でエツとトシ二人がボソボソ喋る声が聞こえてきた。
うたたね程度でまだ眠気は残っていたが、このまま寝転がっていても退屈なのでひとまず起きあがることにした。重たい上半身を持ち上げ顔を起こす。カーテンの隙間から見える色は青暗く、まだ深夜のようだった。
「おつかれ、コセちゃん。」
エツが声をかけてきて、そして続けた。
「あのね、さっきの映画見てたらさ、すごい場面があったんだよ!今日車の中でフランシス・ベーコンのこと話したじゃん?映画の中でも突然フランシス・ベーコンが台詞の中に出てきたの!」
エツはトシと共に笑いながら、ビデオを巻き戻して問題のシーンを再生して見せてくれた。映画の中盤、洋館の庭の中で、主人公が再びメタボ体型のユニコーンを見つけ接近するシーンだった。このユニコーン、実は言葉が話せることが発覚し、ここで主人公と会話を交わすのだ。主人公が「ユニコーンはもっと痩せてるもんだと思ってたわ」と皮肉を言ったところ、当のユニコーンはこのように返した。
「知ってるかい?フランシス・ベーコンいわく、美とは不均衡なものなのさ。ハッハッハ。」
この前後、フランシス・ベーコンに関わるような要素は映画の中に一切出てこなかった。なのに脚本家の意図もわからないくらい、唐突にフランシス・ベーコンが台詞の中に出てきたのだ。見ていて呆気に取られてしまった。リアルの世界とたまたま見た映画の中の世界と数時間の間で、フランシス・ベーコンという人名がこんな形でリンクすることなんて、果たしてあるだろうか?
はにかみながらトシは言った。
「この台詞、前に観たときはさりげなさすぎて全く覚えてなかったよ。ほんと偶然が多すぎるよね今日は。」
さて映画も終わり、テーブルの上に散らかしたお菓子も既に数片のカケラしか残っていない室内で、男3人は気だるく談笑していた。とはいえ何を話していたのか全く記憶にない。それくらいどうでもよいことを話していたのだと思う。ふと窓に目をやるとカーテンの隙間から覗く外の世界の色が、いくぶん闇を払い少し明るさをまといつつあった。刻が未明から朝になりつつあるようだった。
ふと、トシがまたもや思い出した様子で言った。
「そういえばさ、こないだアパートの廊下に捨てられてたビデオを拾って再生してみたらさ、エヴァが録画されてたんだよ。見てみない?」
話によると、しばらく前に同じアパートの住民が部屋を引き払い出ていったのだが、その際出たゴミなどを許可もなく屋外の階段下に廃棄したまま引っ越して行ってしまったそうで、誰も回収しないため粗大ゴミや不燃ゴミがずっと階下に放置されたままの状態となっていたらしい。迷惑な話だ。
ある日、トシがどんなものが捨てられているのだろうと現場を確認したところ、大小千差万別のゴミに混じってラベルのない記録用VHSが置かれているのを見つけ、中身が気になったので持ち帰って再生してみたそうだ。そしたら放映されていたテレビシリーズ版『新世紀エヴァンゲリオン』の数話が録画されていたとのこと。それにしてもトシも強者である。僕なんか見知らぬ誰かが捨てていったビデオテープなんぞ気味が悪くて拾う勇気もない。
僕もエツも熱狂的なエヴァファンというわけではないのだが、互いに来る者拒まずのスタンスなので誘われるまま一緒に見ることになった。
テープがデッキに吸い込まれ、再生が始まった。時折ノイズが横切るテレビ画面の中で、録画されたテレビCMが次々に流れていく。自分が住んでいる地域では見たことのなかった宮沢賢治記念館のCMも流れた。推測するに記念館のある岩手県内で録画されたテープのようだ。画面の左上には放送されていた当時の時刻が表示されており、AM6時近くを差していた。
かつての地方ローカル局ではテレビ東京などで放送された番組やアニメなんかを、遅れた頃に引っ張ってきて放送していることがよくあった。それも深夜とか早朝とか変な時間帯にだ。スカパーや配信ビジネスが普及していなかった一昔前、アニメの視聴環境にも地域格差があった時代の話だ。
やがて画面の中の時計が6時ちょうどを差し、ポーーンと間の抜けた時報がスピーカーから聞こえた。テーマ曲である『残酷な天使のテーゼ』のイントロと共にオープニングが始まる。カット数の多いオープニングのアニメーションは製作陣のこだわりが表れており見ていて楽しいが、ほぼ徹夜状態で疲れた僕の脳には少し堪えるものだった。やはりうたた寝程度では集中力を補えない。
『第拾九話 男の戰い』
エヴァ特有の、メリハリの効いた明朝体でレイアウトされたサブタイトルがテレビ画面に映った。ケイジに格納されたエヴァ初号機のアップ、エントリープラグの中で叫ぶシンジ、コントラストの低い病室内の光景、と次々にシーンが移り変わっていく。
あいにく当時の僕はエヴァは序盤の数話しか見たことがない身分で詳しくはなく、その回も初見だった。本来であれば腰を据えてじっくり観るべき映像だが、ほぼオールナイト状態故のハイな気分であると同時に、精神と肉体のダブル消耗にも襲われていたその時の僕には、情報量に満ちたエヴァを冷静に観るエネルギーなど既に残されてはいなかった。それはエツも、言い出しっぺであるトシもどうやら同じだったようで、エヴァがテレビから流れてはいるものの、時折チラチラ見ながらダラダラと関係ない話をしている有様だった。天下のエヴァンゲリオンを罰当たりなことに環境映像のごとく扱っていたのだった。おそらくトシも本気で鑑賞して欲しかったわけではなく、思いつきで再生してみただけなのだろう。
流れの中でトシがこんなことを話し始めた。
「ある日親が一緒にいる時にエヴァ見てたらさ、めっちゃ気まずくなるシーンが流れたんだよね。今流してるこれの次の話で、シンジの夢の中にレイとかアスカとか女キャラが出てくるんだけど、みんな裸なんだよ。それでカメラ目線でアップになりながらこう言ってくるの。」
するとトシは座ったまま手を膝について二の腕で乳首を隠すような体勢をとると、上半身を大袈裟に前に突き出しながら言った。
「『シンジくん、わたしとひとつにならない?』」
つまり女性キャラが裸でセックスを求めているシーンなわけだ。たしかにそんな映像が家族が揃った居間のテレビで流れれば気まずい雰囲気になる。しかし僕とエツは体格の良い大の男であるトシが女性アニメキャラのエッチなシーンの物真似をやっているのが可笑しくてたまらず、それを見てケタケタと笑っていた。
「なにそれ!トシおかしいよ!」
ブラウン管の閃光が点滅する部屋の中に笑い声が響き渡った。カーテンの隙間から見える外界の色はさらに明るいホリゾンブルーに染まり、朝の到来を告げていた。
あくびをしながらバカ話に花を咲かせているうちに、再生されていたエヴァンゲリオンはいつの間にかエンディングを迎えていた。『Fly Me To The Moon』のテーマが流れ、画面の中では天地逆さになった綾波レイがぐるぐる床屋のサインポールのように回転していた。夜明けのダウナーな精神状態から僕の頭のネジもそれに合わせてぐるぐる回転していたようで、今にもネジが外れて頭蓋骨に空いた穴から全意識が抜けて出ていってしまいそうだった。
エンディングが終わって数秒後、テレビ画面にテープの末録画部分であることを示すVHS特有のモノクロームの砂嵐が走った。ここで一旦録画が停止されたということだ。もう終わったのかと口にする間も無いうちに砂嵐から色のついた映像へと再び画面が映り変わった。先ほどと同じような内容のテレビCM。6時直前を指している画面左上の録画当時の時刻。映像から先ほどまで見ていたエヴァの次の回が録画されていることが把握できた。
「そろそろ帰ろうかなあ…」
ぼそりとつぶやく僕の声を打ち消すように、テレビからポーーンという音が聞こえた。録画された映像の中の時計が朝6時を示している。先ほども聞いた6時を知らせる時報の音が鳴り響いたのだった。
再び『残酷な天使のテーゼ』のイントロが流れる中、僕はテレビ画面を見ながらぼけーっとしていた。もはや何も考える気力すらなかった。すると突然、エツが驚いたような声で言った。
「トシ、コセちゃん!ちょっと見てよ!」
エツの方を振り向いた。エツは壁に飾られた掛け時計を指差していた。僕も時計に目をやる。円形の黒い文字盤の上をオレンジ色の針が回り、盤内に小さな温度計と湿度計がクロノグラフのようなレイアウトでついている、メカニカルで洒落たデザインの時計だった。
掛け時計の針は6時ちょうどを差していた。エツは震えるような声で続けた。
「……すごいよ、ビデオの中も現実世界も同じ時刻を差してるよ…」
成り行きで再生していたビデオの中で表示されている時刻と、現実世界との時刻が、たまたま同刻だったのだ。夜明けにまたもや起きたシンクロニシティだった。
言っておくが、逆算して仕込んだわけではなく、これも偶然だった。トシの呆然とした表情からもそれは伺えた。
窓の向こうに見える外界は更に明るさを増し、どこかからカラスの鳴き声が聞こえていた。もはや夜の闇は微塵も残らず消え去っていた。
これがいい区切りになったのかどうか覚えていないが、僕はここらでトシ宅からおいとますることになった。玄関先でエツとトシに見送られた。
「シンクロニシティが起きまくってすごい1日だったね!気をつけてね!」
別れ際にエツがそんなことを言っていた気がする。柔らかい春の朝日があたる帰り道をとぼとぼ歩きながら、退屈まぎれに一夜の内に起こったシンクロニシティの数々を回想していた。列挙すると以下の通りだ。
カーラジオを流しながらおしゃべりしてたら、エツが口にしたフランシス・ベーコンと、ラジオのDJが口にしたケビン・ベーコンのWベーコンがほとんど同じタイミングでハモりかけた。
エツの旧友と、僕とトシの旧友とで、本名はノボル君だがあだ名はミドリ君という条件に当てはまる人物が共通して存在していることが発覚した。しか
も後者の方のミドリ君は住所まで緑町だった。
コンビニで別行動で買い物をしたら、3人とも知らぬうちに揃って500mlパックのコーヒー牛乳を買っていた。
足湯につかっていた時、エツに八つ橋をおすそ分けしたら、なぜかちょうど食べたい気分だったと言われた。
駅の待合室の中、野良猫を脚の上に乗せ戯れるトシをビデオカメラで撮影しようとしたら、内部に忘れられた誰かのテープが入っており、その中には現実世界とシンクロするように別の猫を脚の上に乗せ戯れるトシが録画されていた。トシが撮影したテープであった。
トシの部屋でブラック・ムーンという映画を見たら、エツが先ほど車中で話したフランシス・ベーコンの人名が台詞の中に唐突に出てきた。
どこぞの誰かがつぎはぎ状態で録画したテレビ放送版のエヴァンゲリオンを再生して見ていたら、ビデオの中で録画された当時の時刻と、僕らが生きている現実世界の時刻が偶然一致した。
これらのことが一夜で連なるように起きた。一体なんだったのだろう。狐につままれたかのような不可解な気分にまとわりつかれながらも、さっさと自分の部屋に帰ってゆっくり眠りたいという欲求が脳内で膨れ上がるにつれ、次第にどうでもよくなっていった。僕とトシの自宅は、片側2車線の広いバイパス道路を挟んで向かい合うような位置にあった。昨夜温泉街まで行くために走った道路だ。バイパスの近くまで出ると、早朝から積荷を運ぶ大型トラックの走行音が、途切れなくビュンビュンと聞こえてきたのだった。
それから数日後、僕はこの地を離れた。
数年が経過したある時、この不思議な一夜についてエツと話す機会があった。彼は言った。
「あの夜駅にいた猫、チェシャ猫だったのかもしれないね。」
なるほど、ただの野良猫のフリをしておいて、実はあの猫が神通力を纏った黒幕で僕らに様々なシンクロニシティ・マジックを仕掛けてきたのかもしれない。狐につままれた夜ならぬ、猫につままれた夜だったというわけだ。僕らはドライブを楽しんでいるうちに気づかないまま不思議の国、もしくはトワイライト・ゾーンに一晩中迷い込んでしまっていたのかもしれない。いつもと変わらない夜も、いつも通る道も、どこかでおかしな世界とつながっているのかもしれない。そんなこと果たしてあるのだろうかと思うけれど、そう空想した方が楽しいから、そう思うことにしている。
奇妙なことには慣れっこの僕らとはいえ、あれほど予期せぬシンクロニシティが立て続けに訪れた夜には、それ以来再び出会えていない。とりあえず今のところは、だ。
おしまい
文:KOSSE
挿絵:ETSU
写真:ETSU&KOSSE
協力:トシ