正解のない道のり
ヨガの世界に「絶対」も「正解」もありません。
ハッキリした答えや、正解を欲しがる。何より、人に何かを決めて欲しい。そんな人によく遭遇します
「この場合どうするのが“正しい”のですか?」
「〇〇先生にはこう教わったのですが、どちらが正しいのですか?」というのはTT生や熱心な生徒にありがちな質問です。
何かを熱心に学ぶ過程ではどうしても「わかった!」「できた!」に快感を覚えがちだし(待って、それ幻だから笑)、何かを体得したような高揚感が、ヨガ的正義感や「こうあるべき」的な視野の狭さにつながりかねないのですよね。
その原因は指導者にもあると思います。盲信的に生徒をついて来させたり、信者的な生徒や自分のコピーみたいな弟子を量産したりする、ある種カリスマタイプの指導者とその一派の弊害ね。どこの世界にもありそうな話。
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指導者は崇拝者が増えれば自尊心が満たされるから。
生徒はついて行ったら楽だから。
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自らの頭で考えたり決めたりする力が鈍る。
それらが人に何かを決めて導いてもらいたい依存や、白黒つけたり正解を求めたりすることに繋がっているのではないかと思います。
洋の東西問わず、ヨガに限らずどんな業界にも、いつの時代も、そういう一連のグループ、勢力図?ってありますよね。その指導者本人にそういう意図がなかったとしても、「◯◯先生について行けば間違いないから」や「◯◯先生の教えは絶対だから」みたいな状況を生んだとしたら、その指導者はそれに気づくべきだし、自戒すべきではないでしょうか?
盲信的な生徒や羨望の眼差しを向けてくる人、受け売りばかりで成長のない弟子やイエスマンばかり周りにいるとしたら、その指導者にはクラスを教える技量はあっても、指導者としての器はなかったということになるでしょう。
人を惹きつける魅力と、人を教え導くことのできる実力とは全く別物です。
カリスマ性と熟練とは本来似て非なるものです。
匠の技を持った職人さんを「カリスマ」とはあまり呼ばないですよね?私なら注目を浴びるカリスマ的存在ではなく、その道の熟練工になりたいと強く思います。
生徒自らが頭で考え、迷い、あれこれと試行錯誤しながら成長していくのをどっしりと見守る…そんな存在でありたいものです。
ちょっと暴力的な言い方になりますが、程度の低い指導者のところには同じような生徒が集まります。先生に気に入られている・いない競争をしたり、やれ同期の誰々より私の方ができてる…だの、誰々は大したことないのに仕事貰えてる…だの何だの、人と比べたり比べられたり、マウントの取り合いや蹴落とし合い、妬みや陰口…え、待って、ピースフルにヨガやってる人たちですよね?というドロドロした、安っぽいドラマみたいな展開が繰り広げられます。くっだらな…
答えなんてそう簡単に見つかりません。
アサナだって毎回新たな気づきや課題があり、きっと一生かかってもアサナを極めたなんて言えない。ヨガの叡智を前にして、平伏したいような気持ちになりこそすれ、ヨガの何かが分かったなんて境地には絶対到達しない。ただ淡々と学びがあるだけ。
何百とあるアサナ。その実践は奥深いものです。その時の狙いによって見方も注意点も変わる。当然流派によって解釈も違う。でも目指すところは大差ない。「言ってることが違う」ではなく、経験することが違う。ゴールはあっても正解はない。ただ、道があるだけ。そして実践と経験から自分なりの答えを見つけるだけ。
人に答えをもらおう、決めてもらおうとするのではなく、自身が経験したことからフィードバックを受け、自分で決め、選択すること。そうすれば誰のどんなクラスを受けても迷わないはず。
「誰のどんなクラスを受けてもヨギーとして成長できる」そんな生徒を育てること。変わらずずっと私の大切にしていること。
“An intellectual mind that is unconnected to the heart is an uncultivated mind.”
— B.K.S. Iyengar
「真心のない知性は貧しい知性である」
B.K.S. アイアンガー
#偶然見た動画で畏れ多くも
#DavidSwenson氏も同じこと言ってたよ
#はいごめんなさいよ
#ヨガBBA通りますよ
#ヨガティーチャーのひとりごと
#前にも何度も書いていること
#依存と自立
#加筆修正
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