先生のこと
先生との出会いは、診察室だった。
わたしは大学を卒業後、眼科ばかりを運営する医療法人に入り、少しの研修期間の後、とあるクリニックに配属された。ベッドタウンにあるそのクリニックは、多い時で一日に200人ほどの人が来院する、とりわけ忙しい現場、と、研修中から聞かされていた。
眼科は、問診、検査、診察、会計、それぞれに待ち時間が発生することもあって、患者さんは待ち時間に過敏になる。いつも混んでいる現場なので、回転をよく!とにかく手早く!待たせないように!という緊張感に満ちていた。新卒のOJT(On the Job Traininng)はなかなか捗らず、ただひたすらに研修で覚えてきた予備検査(患者さん側からすれば気球を見る検査とか)をこなす日々が続いた。とある日の夕刻、受付まわりの仕事は落ち着いていて、『今は診察が滞っているから、診察室のドアの開け閉め(と、患者さんの呼び込み)を手伝う傍ら、診察室介助の様子を見学してくるように』と、お達しを受け、初めて診察室内を垣間見ることになった。
視力検査後の患者カルテを順番通りに並べ替えて医師に届け、診察を見守り、介助し、指示があれば外のスタッフに繋ぐ。カルテを確認して、病名の判子を押し、処方された薬の準備説明をして、検査処置等の会計に関わる項目を算定基準に照らし合わせてチェックし、受付に戻す、の、合間に、ドアの開け閉め呼び込み。それが診察室の中でのスタッフ1名の大まかなる業務(当時)だった。とても煩雑。(脱線するが、職業体験というのは、それを享受しているだけでは見えない部分の仕事を知る、の連続だなぁと思う。)
眼科の診察は、まず細隙灯顕微鏡という細い光が出る顕微鏡で前眼部(目の表面)を診て、倒像鏡で眼底(目の奥)を診る、というのが大筋の流れ。どちらも、部屋を暗くして行う。患者さんの出入りに合わせ、繰り返し暗くなり明るくなる室内が新鮮で、そういえばわたしはあんまり眼科にかかったことがなかったなぁー。などと遅ればせながらしみじみ思う。どうもわたしにはそういう思いの至らなさがある。愚鈍なのだ。
診察室の中は、静かで、医師の仕事は当然ながら回転とは無縁に尊重されており、さながらサンクチュアリだった(隣の介助スタッフの煩雑なる業務はさておき)。独特の言い回しで患者さんにしっかり話をするその日の担当医は、雰囲気のあるベテランの女医さんで、診察室によく親和していた。混み合った待合室でせかせか苛々としていたはずの患者さん達も、診察後はにこやかに退出してゆく。
照明を絞ったほの暗さが診察室の静謐を深める中、介助についていた先輩がしゃっくりを始めた。サンクチュアリに響く、しゃっくり。そぐわなくて、可笑しい。狭い部屋の中に居合わせる全員の耳がそば立っているような気配も、やはり、可笑しい。先輩は必死に抑えようとしているのか、その音は不規則で、ますます可笑しみを増す。囃し立て壊してしまうのは勿体ない、繊細で、どことなく幸せな、可笑しみ。横並んでいる先輩と先生、どちらもを伺える立ち位置からチラリ見やると、細隙灯を覗いている先生のまんまるい目がクルリクルリと楽しげに音の主を探っていた。が、その後も特段しゃっくりには触れずに、明るくなり暗くなり、続く診察。先生もこの幸せな可笑しみを味わっているのかぁ、と、途端に嬉しくなる。あぁ、この人と話してみたいなぁ仲良くなりたいなぁ、と、不遜ながら、思ってしまった。仲良くなれそう、という根拠のない不可思議な予感を孕んで。
とは言え、新卒ペーペーのわたしが、現場の頂点たる医師と親しくなるようなきっかけは、すぐにはなかった。
その後、ひと通りの業務を覚えて、幾つかの現場をまわり、その日の責任者なども経験するようになった一年後あたりだったか、たまたま代診に来た先生と再会した。喜んで挨拶すると、『あら、あんた前は⚪︎⚪︎クリニックにいたわよねェ』と、覚えていてくれ、診療後にご飯に誘ってくれたのだった。先生と業務後にご飯に行く、など当時はあまり聞いたことがなかったから、余程わたしが物欲しげだったのかもしれない。喜んで付き従った。それを始まりに、仕事の後で古い映画を観にいったり、古いが仕立てのよいお洋服のお下がりをいただいたり、するようになったのだった。
名画座で映画を続けてみてから、余韻に浸りコーヒーを飲むことが多かったが、『なんかお腹空いちゃったわねェ』と、勢いラーメン屋に入ったり、『アイス食べたくなっちゃったわァ』と、マックでソフトクリームを食べたり、先生の気分のままに夜を更した。先生は、努力をしてきた自負も、職業へのプライドも、きちんと持ち合わせていたけれど、『わたしはちっとも教養がないから恥ずかしいのよ。だから映画で勉強してんのヨ。』と、言っていた。
携帯電話を長らく持たなかった先生とは、葉書でやりとりした。約束していた日にものすごく体調が悪くなり、『今日はちょっと無理です』と伝えるためだけに、朦朧としながら1時間電車に揺られて待ち合わせ場所に行ったこともあった。転職したり、結婚したり、妊娠したり、子どもが生まれたり、する度、少しずつ形を変えながら(夜の名画座は久しいが、昼に子と動物園に行ったり、お鍋を買いに行ったり、家でお昼ご飯を食べたり)、親しくしてもらっている。
時たま、あの時のしゃっくりとクルリと動いたまんまるの目を懐かしく思い出す。あの時の、不遜な、仲良くなりたい!、がなくても、こんな風に親しくなれただろうか。人とのご縁は、不可思議だから、別の何処か別の機会にやはり結ぼれたかもしれない。
買ったばかりの、川上弘美さんの『森へ行きましょう』を読み進めながら、そうであれよと、思うのです。