スライド2

何も無くなった話(教員2年目)

僕の短所であり、長所。
「なにもない」

僕がnoteに書き留めておきたい話は、
全てこれを前提としています。

「なにもない」ってのは弱い。なにもないから。
「なにもない」ってのは強い。なにもないから。

傷ついて何もなくなっちゃった人がいるなら、少しは役に立つんじゃないかと思ってます。

*******************************************

僕の「なにもなくなった瞬間」は鮮明だ。正規採用2年目の、2007年10月2日15時。校長室の大机の上で大暴れして唾吐きまくっている女の子2人を、椅子に座ったまま、ただただ見上げていた、あの時。

「打つ手無し・・・。」
純度100%の、完全なる、虫の子一匹通さない、究極の無力感。この日に至るまでに、既に飽和に近かった「シネ」「キモイ」が、僕の小さな器から、溢れる、溢れる、溢れる、溢れる。

*******************************************

初任時代、暴徒化した男子集団(4年生)と共に過ごし、1人だけ持ち上がり。夏休み明けにはそれも収束し、一息ついたところで発覚した”女子の実態”。

『あの昨年度を耐えきった』『あの男子達との関係が作れた』という僕の仄かな自信は、その後の「シネ」「キモイ」の消化に殆どを費やし、この日、全くのゼロになった。

怒号、嘲笑、爆笑の後に、窓から逃げ出す、2人の女の子。大量の唾にまみれたまま、うな垂れる僕。
『自分を責めなさんな』同じく唾まみれの校長先生にかけられた優しい言葉で、僕は泣いた。とにかく泣いた。”泣きじゃくる”を見事に体現した、お手本のような泣き方だったと思う。

**********************************************

翌日の10月3日、学校をサボった。
泣いてる最中から決めていた。もうHPもMPもゼロだったから、正直なところ罪悪感も無かった。

福井の実家に帰ることも考えたが、もう戻って来れない気がして、南下は横浜で留めた。何をしたかは覚えていない。きっと映画も観たし、ウイイレもしただろう。『明日は絶対行く』という誓いの元、この日一日はとにかく遊び呆けた。

深夜、家に戻ると、僕は書道道具を引っ張り出した。明日からの決意を表すため。忘れないようにするため。書いた言葉は3つ。
『逃げない』
『向き合う』
『なにもない』
3番目は、ゆずの好きな曲のタイトルだったから、特にしっくりきた。そう。僕は何を驕っていたんだ。「なにもないやつ」だってのに。

***********************************************

思い返せば、僕は昔から「なにもないやつ」だった。走るのは遅い。頭もそこそこ。顔だって中の中。背の低さと歯並びの悪さを考慮すると、”なにもないやつ”以下だったかもしれない。

『だっふんだぁ!』と言って、クラスが沸くやつ。
『だっふんだぁ!』と言って、クラスを静めるやつ。
小1の時から、僕は間違いなく後者だ。ただ、目立ちたがり屋な性質もあったから、どんなシチュエーションで、どんなタイミングで、どんな声量で『だっふんだぁ!』をすれば良いか、ずっと考えてた。

ずっとやってたバドミントン。
パワーもスピードもテクニックもセンスもあるやつ。
パワーもスピードもテクニックもセンスもないやつ。
いつも思い知る。僕は間違いなく後者だ。でも格上の選手に勝つために、相手を封じ込めて、自分が活きる術を、ずっと考えてた。

本当に僕は何を驕っていたんだ。「なにもないやつ」だってのに。”なにもない”ところから勝負を仕掛ける人間だってのに。

********************************************

一日のズル休み後、学校に復帰。半ば仮病はバレていたが、職員室のみんなは優しかった。

クラスのある男子は、「苦しい時は、俺たちにも相談してくれよ」と声を掛けてきた。ふざけて返したが、正直泣けた。

この2ヶ月間、たしかに僕は苦しんでいたが、多くの味方に目を向けずに一人で奮闘していたことに気付かされて恥ずかしかった。

「なにもないやつ」の戦い方は、まずは状況の把握から。策もなく真正面からぶつかっていくのは、僕の流儀じゃない。使えるものは全て使う。やれる策は全てやる。ゼロになったことが、自分の最大の能力を思い出させてくれた。

***********************************************

「なにもない」
これを飲み込めると、心は非常に軽くなる。

子どもに指示が通らない。
「なぜだ?」 ・・・、明快である。
自分の指示が子どもを動かすに至ってないだけ。単純に足りてない。

子どもが活動に取り組まない。
「なぜだ?」 ・・・、明快である。
活動の魅力を伝えきれていないだけ。
活動の価値を分かっていないだけ。単純に足りてない。

自分に変な自信があると「なぜだ?」で停滞してしまう。思い通りにいかない責任を、子どもに委ねるのである。自分が足りていないにも関わらず。そして、結局のところ『怒る』。恐怖をもってやらせる。自分が足りていないにも関わらず。

その点、「なにもない」は楽である。全て、自分が足りないせいだから停滞しない。子どもの耳と心に届くように、自身が百変化するのみ。「♪なんどでも なんどでも・・・」とドリカムを口ずさみながらハマる方法を模索するのみ。相手に怒りの感情が湧かないのは、何と健全なことか。

**********************************************

2007年10月2日。確かに、僕はゼロになった。
「なにもない」やつになった。

ただ、これこそが、自分が本来大事にしていた要素だった。正直、これ以後も僕の教員生活は嵐、嵐、嵐だったが、「なにもない」強さが助けてくれていたと思う。

子どもと接する際、思うように行かずに悩む方は多い。怒って、叱っての早急な解決もあるだろう。ただ、自分の言い分に不足はないか?を考えてみる価値はある。絶対に違う解決法はある。

「なにもないやつ」の一人として、悩める「なにもない方」を心から応援しています。一緒に策を考えましょう。10001回目は何か変わるかもしれないとのことです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?