頭の整理(つづき2)
募る疑問と説明しきれない感情が身体中を駆け巡る中、日に日に刺青を彫る能力も成熟してゆき、大きな作品、カラフルな作品、創造的な作品や複雑なデザインの作品など数多くこなしていけるようになった。向こうの文化として、サービスがよければ惜しみなくチップを渡すのが当たり前であり、私は常にチップを受け取っていた。時には刺青の価格以上のチップをもらったこともあり、戸惑うこともあった。
今でも覚えているエピソードとして、一人の若い海兵隊のレクエストで、どこまでもグロテスクでおぞましい髑髏と人の赤ちゃんの刺青を自分の前腕をぐるっと回るように入れたいというものであった。
私は何日もかけて試行錯誤し、描きあげた下絵を彼に見せ、施術が始まり、数日かけて完成させたのち満足そうにして帰っていった。そして数日後か数週間後かは定かではないが、その海兵隊が店に戻ってきて私を探し、おもむろにジッポーと何かをギフトとして渡しに来た。写真も一緒に撮りたいとせがまれ、私も驚きと嬉しさで自分のカメラでも一緒に写真を取ることにした。
仕事終わりのある夜中、店から駐車場まで歩く中、週末のせいもあり、あちこちで米兵達が飲み歩いていた。そんな中、群れの中の一人のガタイの大きな輩が私の前まで真っ先に走り出して来た。右手を振りかざしてまさに今から私に殴りかかろうといった勢いで駆け出し、ピタッと私の頭の目の前30cm手前でその拳が止まった。
私は終始この男を凝視していた。
何もかまえず、逃げようともせず、戦おうともせず、
殴られれば致命的である。 逃げたところで、ここにいてこの暮らしを続けるのなら、またいつでも似たような経験は起こるだろう。戦えば、こちらは8人ほどで回している店に対して群れは5人くらいだが、道の周りには数えきれないくらいの海兵隊が歩き回っている状況である。勝てはしない。
男も私を見ていた。怒った顔で目も酒を飲んでいるため充血しているその表情が瞬時に変わり、私に握手を求めて両手で私の右手を掴んで来た。
何やら喋っていたが意味が理解できず、何も覚えていない。
その非日常な状況で私の中で何かが表れた。人間というよりも、仏教彫刻でよく見かける明王のような姿である。
私が確信を持って言語で表現するならば、不服従である。不屈でもある。それが私に残された人間として主張する表現。 己の身体で表現した。
もし殴られてても殴り返さなかったかもしれない。自分の深い深い部分の感情が呼び覚まされたのである。この瞬間、瞬間の損得で動くのではなく、深い部分から出てくるメッセージを彼らに伝えることを表現したのである。
それは、
"この彼らが作りがした環境を受け入れない、快く思っていない。我が物顔で自分の国籍とは違う国で歩き回り、汚し、散らかし、さらにはそこで暮らす人に理由もなく殴りかかろうとする、その行動全てである。"
もしかしたら、向こうも非言語のメッセージを受け取ったのかもしれない。
だから、私は決して彼らと同じような態度で表現しないと決心していたのである。
それはまさによく巷で語られる侍像のような態度である。
私は侍をあまり好意的には捉えていなかった。なぜならそれは誰かに仕えているからである。誰かに従うのが嫌いだったのである。
ただ、あの時のやりとりから、湧き溢れる意思に従うことになった。
兄弟子の一人、店で一番年長のトモさんは決して彼らからチップをうけとらんかった。
もう一人の兄弟子は、自分が死ぬ寸前になったら、ピストルかマシンガンを手に入れて、基地に乗り込み、玉を打ち放すと時々語っていた。
ちと精神的に不安定だった私の前に入った兄弟子は、時々クラブで飲んでは米兵を殴り倒す時があると通訳のジョンがいっていた。
私と同じ年の兄弟子はアメリカかぶれで特に気になっていないようだった。
師匠は、指が3〜4本なくなっていたが、真摯な宗教者となり、仏教徒と思われる宗教の寺によく行き、お経を唱えにいっていたようである。
私は、特にアメリカで流行っている斬新的でクリエイティブなTATTOOに常に憧れていた。日本の伝統的な刺青にほぼ、全く魅力に感じてなかった。
それと同時にこの米軍というこの廃退的な傲慢で暴力的で危険で、滑稽で、後先を考えない、面白いことに目がなく、新しいことに抵抗のなく、フレンドリーな性質のこの集団に、怒りと共感を同時に感じていた。
つづく