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古本市が始まりました。
1年ほど前から住んでいるマンションは、晴れた朝には玄関を開けると遠くに信じられないくらいにきれいな冠雪の山が見える。先日地元生まれの方に山の名前を聞いたら有名な山だったので、おそらくちゃんと登山をしたら樹氷や一面に広がるまだ誰も踏んでいないふかふかの新雪などもっとうつくしいものが見れるんだと思うけど登らなくても充分にきれい。そこにもっとうつくしいものがあるんだろうと想像することのたのしさと日々それを眺めることのできる充足。実を言うとまたすぐに引越しをすることになりそうなのだけど、毎日うつくしい山を眺めながら過ごすこの短い日々と一瞬の非日常は、確実にわたしを潤している。
年に一度の大きな市場が無事に終わりました。今期まで京都古書組合の理事をしているので、ひよっこ古本屋ではありますがなんとか1週間走りきりました。
古本屋にとってもっとも大事な仕入れ。買取と市場は生命線。日々模索。すべての事業における継続と方向転換のバランス。
久しぶりに映画を見ました。見たい見たいと思いながら見逃していた「プリシラ」です。ソフィア・コッポラの映画は10代の頃から無条件でずっと好き。なんらかの軟禁状態すなわち自由に飛び立つ前の、少女時代の無防備さと甘美さ。すっかり自由になってしまった今のわたしには、ただただ無為に過ごす支配という名の庇護がどこかうらやましくもあり(エルビスとプリシラのグルーミングのような関係性、ヴァージン・スーサイズの毒親のような支配はもちろん支持しない)、もともと家が大好きなわたしは今年はただただ暇を怠惰に過ごしたい、何もせず何も見ずただ天井や頭に入ってこない文字の羅列など眺めたい、などなぞの優雅な願望が生まれたりもします。大人びていて冷静なプリシラと、スターに憧れ恋をしたプリシラ、そのどちらも同居できるものなのだろう。感情をあまり表に出さないプリシラが、特別な少女時代を過ごしながらもやはりまだ少女であったリアルという感じがした。そういえば少女の頃のわたしは、暇すぎて外で椿の蕾を剥いたりしていた……あまりにも暇すぎる……。オールディーズなサントラもすごく良くてずっと聴いています。
ただただ暇を過ごしたい、なんて思っていたら今週末の雪。みなさんご無事でしょうか。わたしは金曜日、若干体調が優れなかったので家の積読棚の中からハン・ガンの『菜食主義者』を読みました。著者には、死というものがどのような解像度で見えているのでしょう。著者あとがきに「底まで降りていきたかった」とあるように、本当にどうしようもなく救いが見いだせない物語だけど、ハン・ガンの本を読んでいると、死には死の時間が流れているような気がして救われるような気持ちにもなります。
ぎりぎり雪の前に搬入が終了した京都丸善の古本市、3/4(火)までやっています。雪の中でもたくさん来てくださっているようです。京都の皆様引き続きよろしくお願いいたします。
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