同居人
それは新居に引っ越してきて半年ほど経った頃の話。
深夜、私がベッドで寝ていると、コトンという小さな物音に気づいて目が覚めた。
月明かりでぼうっと照らされた部屋の中、音のしたキッチンの方を見ると、そこには部屋着姿で椅子に腰掛けながらお茶を飲んでいる細身の見知らぬ老人がいた。
私はハッとしてとっさに起き上がろうとしたが、金縛りで体も動かず、声を出すこともできなかった。
私は恐怖しながらも薄目で老人の様子を伺っていた。
老人は私の存在には気づいていないのか、ただただお茶を啜りながら、ボーっと空を見つめているだけだった。
そして、老人が徐に立ち上がったかと思うと、トイレの方へ歩いて行った。
トイレのドアが閉まる音が聞こえた後、私は金縛りから開放された。
ベッドから起き上がると、私は恐る恐るトイレに向かった。
だが、トイレの電気は消えている。
コンコン
私はトイレのドアをノックした。
静かな部屋にノック音だけが響く。
しかし中からの反応はない。
ドアの鍵も閉まっていないようで、ドアをゆっくりと開けてみるとそこには誰もいなかった。
老人が座っていたテーブルの上に湯呑みなどはなく、そこにあるのは私の箸立てだけだった。
私は何かの見間違いだと思うことにした。
しかし数日後の深夜、また月明かりの部屋で老人は姿を現した。
同じように椅子に座ってお茶を飲みながら、今度は新聞を広げて読んでいるようだった。
私はまた金縛りで動けず、声も出すことは出来ないが、老人は何か悪さをするわけでもなくただ寛いでいて、こちらを向いたかと思えばすぐにまた視線を新聞に戻した。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がると、今度は浴室の中に入って行ったのだった。
金縛りが解けて浴室に向かうも、浴室は暗くて水の音すら聞こえない。
ドアを開けても、やはり老人は居なかった。
別の夜には、何かを探すようにキッチンを歩き回り、私の寝ている部屋まで入ってきた。
少し怖かったが、老人はこちらを見ることなく壁に向かって腰を下ろすと、ゴソゴソと何か探す仕草を見せた後、部屋を出ていき消えていった。
いつしか私は、夜な夜な現れる老人に慣れてしまっていた。
ある日の朝、私はうっかり寝坊をしてしまった。いつものようにしっかりと目覚まし時計をセットしていたにも関わらず、音が鳴らなかった。
たまたま目を覚ましたからいいものの、時計を見たときには血の気が引いた。
その日は大事な打ち合わせがあったから。
私はベッドから急いで飛び起きて顔を洗い、歯を磨きながら寝癖の付いた髪を梳かした。
化粧はマスクをつけば誤魔化せると、最低限に済ませた。
仕上げは会社に着いてからするつもりで。
スーツに着替え、何とか走ればいつものバスに乗れる。
慌ただしくバッグの紐を掴み、外に出ようと玄関のドアノブに手をかけた。
その時、私は反対側の腕を誰かに掴まれてぐいっと強く引っ張られた。
(え?)
私は驚きながら振り返ったが、そこには誰もいない。
心の隅で、私はあの老人の仕業ではないかと思ったが、とにかく時間がなくて急いでいたから、私はドアの鍵を開けて再びドアノブに手を掛けて開けようとした。
しかし、今度は何故かドアが開かない。
まるで向こう側から押さえられているかのように、ドアはびくともしなかった。
覗き穴で覗いてみたが、外には誰もいない。
「もう!いい加減にして!!」
誰もいないというのに、私は遅刻の焦りからか大声で叫んでしまった。
すると、ドアが勢いよく開いた。
私は怪訝に思いながらも、鍵を掛けてバス停まで走った。
しかし、時すでに遅し。
バス停が見えた時、いつも乗っているバスが走り出す後ろ姿が見えた。
手を振りながら必死で走ったが、バスは止まってくれず、結局乗り遅れてしまった。
私は落ち込みながら、10分後にやってきたバスに乗り込んだ。
バスに揺られる事数分。
普段はさほど混んでいない道路が、やけに渋滞していた。
時間がどんどん過ぎていき、私は焦っていた。
バスが大きな交差点に差し掛かった時、1台のバスが不自然な角度で止まっているのが見えた。
よく見ると、止まっているバスの側面に赤いスポーツカーが車体にめり込むように止まっていた。
遠くから聞こえてくるサイレンの音。
そのバスを見て、私は驚愕した。
それは私がいつも乗っているバスだった。
歩道には顔馴染の乗客達が座り込んでいる。
怪我人も出ているようだった。
普段通りに乗っていたら、私も巻き込まれていた。
事故を起こしたバスの横を通り過ぎながら、私は密かに安堵していた。
そして、私は今朝の不思議な体験を思い出し、掴まれた腕の方を見た。
すると、そこには強く握ったような赤い跡が残っていた。
私は何となく、あの老人が助けてくれたのだと思った。
次に老人が現れたら、お礼を伝えるつもりだった。
それから数日経ったある夜のこと。
私はすでに寝入っていたが、突然大きな音が聞こえて目が覚めた。
音はこれまでとはまるで違う。
壁を殴るような暴力的な音だった。
音のする方を見ると、薄暗い隣の部屋であれほど穏やかだった老人が怒りに満ちた形相で壁を殴りつけていた。
何度も何度も壁を殴りながら、老人はブツブツと罵詈雑言を呟いていた。
その時は不思議と金縛りは起こらず、私はベッドから起きて老人に近づいた。
「あの……」
私が声を掛けると、老人は壁を殴る手をピタリと止めて、今度は玄関の方を向いた。
老人が殴っていた壁面に、真っ黒な手形がびっしりと浮かび上がっていた。
私が戸惑っていると、今度はうめき声を上げながら体を小さく丸めて蹲り、老人はそのまますーっと消えていってしまい、床には黒い水溜りのような影が残されていた。
しかし、朝起きると床の影も壁の手形も消えていて、私は嫌な夢を見たのだと思っていた。
だが、その日以来老人は現れなくなり、代わりに人の形をした真っ黒な影が現れるようになった。
その影は背中を丸めながら、部屋の中をゆっくりと移動している。
姿は老人に似ていたが、真っ黒なその影からはとても嫌な感じがしていた。
その証拠に、その真っ黒な人影が現れた翌日には、床に赤黒い足跡がこびりつき、壁にはカビが生えるようになってしまったからだ。
それらはなかなか取れず、汚れは日を増して濃くなっていった。
次第に私は体調を崩していき、しばらく入院することになった。
同僚に着替えを頼んだ時、部屋に入って驚いたという。
床や壁に赤黒い血痕のようなものが広がっていたと。
その話を聞いた私は、退院後すぐにその部屋から引っ越した。
部屋を出る日、床も壁も赤黒く汚れていたが、不動産屋は何か知っているのか何のお咎めもなかった。
今、その部屋がどうなっているかは知らない。
けれど、その後に知った話では、どうやら昔あの部屋で殺人事件があったらしい。
亡くなったのは高齢男性。
犯人は隣に住む若い男性だったそうだ。
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