『Guava Island』にみる「我々はどこへ行くのか」社会の処方箋
皆さんは映画『グアバ・アイランド』はご覧になりましたか?
最初からラストまで何とも誠に不思議な映画です。
はじめ映画を見始めたときに想像する自分のイメージが、全体を観終わってからのイメージを良い意味で裏切ります。そして素晴らしい意味で、感想や感情に彩りとダメージと大きなヒントを与えてくれます。ラストでは、主人公の「ダニ」が死んでしまうのですが、それが何ともアニミズム的でとても印象的です。
最初アニメのなかで語られる神話的な物語りの答えに、ラストシーンで主人公ダニの彼女であるコフィ(リアーナ)が応答しているのですが、とても象徴的でメタフォリカルなメッセージなので、すぐにわからずもう一度見直してしまったほどです。
『Guava Island』
Amazon studio/Amazon prime リリース開始2019年4月
出演者:主演:チャイルディッシュ・ガンビーノ(ダニ役)とリアーナ(ダニの彼女コフィ)主演
2018年のグラミー賞最優秀ミュージック・ビデオを受賞。
監督:Hiro Murai(村井宏)(38才)
Hiroはロスアンジェルスを拠点に活動する、日系アメリカ人の監督です。『グアバ・アイランド』が長編映画としてのデビュー作
監督のお父様は、大変有名な作曲家で音楽プロデューサーの村井邦彦さんです。私の世代でこれらの曲や歌手を知らない人はいないと思います。
テンプターズ『エメラルドの伝説』、ザ・タイガース、トワ・エ・モワ、赤い鳥、辺見マリ、ハイ・ファイ・セットなどのヒット曲を手がけ、荒井由実をデビューさせました。
この作品はキューバにて「グアバ島」という秘密のプロジェクトとして撮影されたのだそうですが、批評家たちからも74%の支持率をもらっているそうです。
作品の概要については、こちらの映画紹介記事や、Real Sound 映画部に掲載されている映画評を参照にしてみてくださいね。
『Guava Island』は“資本主義と芸術”の物語に C・ガンビーノが活動終了を前に伝えるもの
を参照にされてくださいね。とても素晴らしい映画評を書いています。
何よりも映画『Guava Island』を観るのが一番と思います。
この映画には、とてもたくさんのメッセージがミルフィーユのように何層にも重なって入っていて、リアルでダイレクトなメッセージだけでなく、メタファー的で神秘的、あるいは社会制度やアメリカ資本主義への揶揄てきなものだったり、未来に見出せる可能性としての処方箋だったりするものが詰まっているように感じます。
映画作品にインスパイア―されて頭に浮かんできたことと、世界や社会はそうなっている、と以前自分が感じたこととが、繋がった視点があるのでここで紹介してみたいと思います。
「言葉」ではなく「音楽、踊り、歌」
この映画では「言葉」の代わりに「音楽」「神話素」「身体性」を使って感情や愛情表現をしています。主義主張や反論を言語的にするのではなく、踊りや身体表現を通して訴えたり、視覚にインパクトを与えてきます。
それはともすれば暴力にもなりかねない「言葉」を使わないやり方で、島民同士がコミュニケーションをはかる、共同体や仲間との繋がりを確立させることができると信じる主人公ダニの信念でもあり、監督の視座なのだろうと感じます。
このブルシットな社会に対して抗議はするのだけれど、それは武器を持たず武器の代わりに「音楽」や「歌」「踊り」で戦うという、芸術サパティスタ的なものを感じます。
ダニの恋人コフィのことば
「彼の夢はいつか島民を団結させる曲をつくり、島の力を思い出させることだった。それがたとえ 一日であっても……」
音楽やリズムが引き起こす眩暈や、独特なうねりが生まれているシーンなどでは、観ている私たちに強烈な酩酊感を与えてくれますし、ドラッグではなく神秘体験が変性意識にはいってい儀式となっていく様が、ダークなものではなくホワイト的、俗的ではなく「聖」なるものへの感染を表象してくれる映像として伝わってきます。
『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』
私が師事している宮台真司先生の著書に、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』があります。
表紙の絵は、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というタイトルのゴーギャンの絵で、ゴーギャンの精神世界を最も描き出している作品ともいわれています。
ダンテの『神曲』煉獄 のイメージに近いものを感じさせます。
「それは題名というよりも、署名なのです」と告げるゴーギャン。では一体誰の署名なのか? その絵が描かれた時代背景について、あるいはゴーギャンの悲しみの背景について、宮台は語り始めます。
そして<ここではないどこか>を、現実世界にではなく観念世界に探す旅が始まり、やがて<ここではないどこか>を希求する若者たちが<どこか行けそうで、どこにも行けない>という“悲劇”を描くようになってきた背景について、マルクスの本質をとりあげ、宮台哲学の骨格にも影響している「マルクスの本質疎外論(他者や世界、自然と自己を疎遠なものとして、それらとの本質的な関係を失ってしまうことにより、人々は自分を見失ってしまう状態を「疎外」という)=物象化論(マルクス的には人と人との関係が、物と物との関係として錯視される「物象化」に近代社会の原理を見る)」に、挫折を“先取り”する構えとして、後期ハイデガーやニーチェ的な思想背景とも接続している「受苦的疎外論」に至る過程を取り上げて著しています。
朝日カルチャーセンターの対談「森の哲学」でも話された事ですが、未規定なものや規定不可能なものを、<ここではないどこか>に探すのではなく、<ここ>に探す生き方だという思考が大切な鍵になります。以前、それはニクラス・ルーマンの時間と空間、信頼について書かれていたことが理解のきっかけとなった、と伺ったことがあります。
宮台は<ここではないどこか>を探すかわりに「私たちはどこへ行けるのか/行くべきなのか」を明らかにすると同時に「それを可能にするものは、私たちの現在“が”可能にするもの」だという問いについて語ります。
終わりなき再帰性のゲーム
私たちは選択肢がたくさんあることによって、自由を感じる。その選択肢は実は誰かとの関わりや運命によって他にもあり得たはずの選択肢の中から限定されたものに過ぎないかもしれない。でもそのように実は私たちが享受する自由というものが、実は不自由でしかないという可能性に気づくこともまた、誰かによってコントロールされた結果かもしれない、という繰り返しが多数あり、どこまで前提を疑えるのかが世界の全体性に近づく終わりのないゲームなのだ。
そんな再帰性について、かなり悩んだこともありました。
そのことを宮台先生は「受苦的疎外論」として説明されました。私たちがどこから来て、どこへ行くのか、という問いにはこの「受苦的疎外論」がとても参考になります。
宮台先生の講義から「ここではないどこか」によって苦しめられてしまうことについて、参考箇所を記載します。
受苦的疎外論
『Guava Island』の喩的なメッセージ
映画『Guava Island』では、近代社会に生きる私たちが、ゴーギャンやダンテ、ニーチェやハイデガー、そして宮台真司が問うてきた「私たちが何者で、私たちはどこから来て、どこへ行くのか」という普遍的な問いが彼らの島の楽園性と煉獄性に表象されています。
監督自身が「こんな社会の在り方」から自由になる可能性、「音楽・踊り」や「身体表現」「非言語的なコミュニケーション」が「儀式」を可能とする、未規定なものが可能となれば、たとえ支配的な抵抗があろうが、共同体やスモールユニットが一つになることは可能なのではないか、という一つの処方箋を暗喩しているのではないか、と感じました。
先住民的でアニミズム的な思考では、生と死、人間と物、自然と人間などのように何かを分けるのではなく、「未規定」「境界がない」というように分けない思考、トポロジー的な視座がとられます。それは古代マヤアステカ先住民の暮らしや古代の文明以前の歴史をみればわかります。そして彼らにとって「儀式」的なことは何にもまして大切な日常と非日常をつなぐ架け橋という意味で重要な営みでした。それは『Guava Island』で描かれているような世界観のもとで成立するものです。
若い監督Hiro Murai(村井宏)氏に、世界観を表現していく無限の可能性を感じます。