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1万人目の地域おこし協力隊
先日久しぶりに、
「地域おこし協力隊に興味あるんですけど……」
という大学生から連絡をもらった。
現役の頃もそんな相談はちょこちょこ受けていたけれど、個人的には「新卒で地域おこし協力隊」には反対派だったから、
──選択肢としてはアリだけど、いったん大手の企業とかに勤めてみたほうがいいかもよ~
なんて答えていた。
しかし、今や地域おこし協力隊は「仕事」の選択肢の1つとして一般的なものになり、大学生の就職先として取り上げられるような状況になっているらしい。
そうなった時に、地域おこし協力隊の任期3年間を終えてさらに2年経つ今の自分は、彼らに何を伝えられるだろうかと考えさせられた。
地域おこし協力隊制度と一般化フェーズ
「地域おこし協力隊」とは、2009年(平成21年)からスタートした総務省管轄の国の制度で、地域のニーズに即した様々な活動内容・条件で各自治体が個別に採用する隊員に対して、任期である3年間の給与や活動費を国が地方交付税として補填してくれるというものだ。
特に若者の都市部から地方への移住・定住を促進することで、外部人材の力を借りて地域の課題解決を図ることを目的としている。
簡単に言えば、
──都会の若者を地域に呼び込んで盛り上げてもらおう!
みたいな制度である。
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私が岩手県紫波町の地域おこし協力隊に着任した2017年は、制度創設からすでに8年目。
紫波町としての採用はこの年が最初(1期生)だったのだが、早くから導入している地域では任期3年を終えた卒業生を出して2周目、もしくは3周目みたいなところも出てきていた。
そう考えると、私は何人目くらいの地域おこし協力隊だったのだろう……。
当時、活動紹介などのプレゼンで
「日本全国に6,000人近くの同僚がいるみたいなものなんです~」
と話していたのを思い出したので、久しぶりに総務省のデータを漁ってみよう。
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平成31年3月31日までに退任した地域おこし協力隊員に係る取組状況調査を実施。
916団体における平成31年3月31日までに退任した隊員の累計は5,693人。
※本調査対象は、概ね1年未満で退任した方を含め、地域おこし協力隊員としての委嘱を受け、平成31年3月31日までに退任した全ての方。
令和元年度の地域おこし協力隊の隊員数は、前年度から10名減の5,349名となった。
ということからすると、私が3年目を迎えた2019年度(令和元年度)時点で「地域おこし協力隊と呼ばれたことのある人」(OBOG・現役)は、11,042名にものぼるらしい。
まあ、だいたい1万人目くらいといったところか。適当ww
とにかく、OBOGと現役の数がだいたい半々なところを見ても、都会で活躍し、スキルも経験もあって、力が有り余っているような「スーパーマン人材」が、ブルーオーシャンを目指して地域へ入っていった初期の地域おこし協力隊とはフェーズが変わってきていることが窺える。
地域おこし協力隊の仕事:たっしーの場合
前提として、人間は
①私はこうだった
②私はこうすればよかったと思っている
③私の知人はこうだったらしい
の3ベクトルでしか物事を語れない。
だって、目や耳などの受信デバイスに関して、他のものを外部接続することはできないし、処理や分析のための脳のシステム自体を入れ替えることも不可能だから。
出来ることと言えば、知識というソフトウェアをインストールして、アップデートしていくことくらいだろうか。
ただし、記憶というハードディスクは容量が決まっている上に、あべこべな自動削除機能を持っていて、10年前の苦い思い出は消えないのに昨日の朝ごはんの内容は忘れてるなんてことがよく起きる。
おっと、話がそれる前に本題へ戻そう。
……だから、ここに書くのはあくまで「私のケース」であり、それが誰かに当てはまるとか、良いとか悪いとか、そういうことが言いたいわけじゃない。
それでも、事例サンプルを集めることは自分のケースを考える上での参考になるだろうし、要素としての材料は増えれば増えるほど選択肢が広がるであろうことを期待して、書き進めていく。
紫波町ってどんなところ?
そもそも紫波町は、岩手県の中央に位置する人口3万3千人ほどの小さな町で、米や果樹などの農業を主幹産業としながら、南北を盛岡市・花巻市という地方都市に挟まれたベッドタウンとしての機能も担っている。
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古くは奥州街道の宿場町として栄えたそうで、かつて紫波郡の政治の中心だった旧郡役所の建物が残るエリアは、「日詰商店街」として今も賑わいの歴史を絶やすまいと踏ん張っている。
※リンク先は日詰商店街に事務所を構えるまちづくり会社「㈱よんりん舎」のFacebookページ
また、一説に南部杜氏発祥の地と言われる紫波町は、現在も4つの酒蔵(吾妻嶺・月の輪・廣喜・堀の井)を有する酒どころであるのに加え、地域で栽培した葡萄から醸すワイナリー(自園自醸ワイン紫波)や、名産であるりんごを使ったホップサイダー(紫波サイダリー)など新しいお酒造りも進んでいる酒の町としての一面もある。
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最近は、補助金に頼らない公民連携のまちづくりとして2009年に始まった「オガールプロジェクト」が地方創生の成功事例として注目を集め、全国から行政視察が絶えない町となった。
JR紫波中央駅前の未利用地を活用したオガールエリアは、町役場と町営の図書館、産直やカフェ・居酒屋などの商店、体育館と直結の合宿利用もできるビジネスホテル、保育園に病院まで、様々な業種のテナントが4棟の建物に入り混じった複合施設になっている。
1棟ずつ施設が出来上がるごとに順次オープンしていたオガールだが、全ての建物建設を終えて新たなスタートを切ったのが2017年4月。
私が紫波町民になったのは、まさにそんなタイミングだった。
町の魅力をPRする役割
私は当時「移住定住促進担当」として採用され、所属部署である「企画課総合政策室」は町の施策を全体的に調整するような部署だった。
オガールプロジェクトをきっかけに紫波町の名前が知れるようになってきた段階で、もっと住民に寄り添って暮らしの質を上げていくことや、その魅力を発信して移住者を獲得すること、さらには地域でコトが起こる好循環をつくることで、町の持続経営にも繋げていきたい、というフェーズだったのだと解釈している。
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ただ、決められた仕事というのはほとんどなくて、「やりたいことはどんどん提案して」と言われたその通りに、提案したことは「いいね!まずやってみよう!」と発破をかけられ、「それはできない」と完全なNOを出されたことは一度もなかった。
だから自分が好きなことややりたいことを軸に実践で試しながら、結果的に、どうしたら紫波町という町が魅力的に伝わっていくか、という命題とひたすら向き合わされた3年間だった。
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人手不足を補う臨時職員のように扱われてしまうこともあるという地域おこし協力隊制度において、ここまで自由度高く、隊員個人の能力や想いを尊重してくれる自治体はなかなかないと感じる。
おかげで紫波町まるごと大好きになった私は、うまく転がされたのだとも思う。笑
ただ逆に言えば、何も指示してもらえないということでもあり、やってみたいことが無かったり、自分なりの仮説検証を繰り返すことが苦手な人にとっては難しい役どころだったのかもしれない。
初めて自分で企画提案したプロジェクトは、私の趣味である写真撮影を活かしたカメラワークショップだったのだが、
写真が楽しくなって、町で写真を撮る人が増えれば、町の魅力を発信する機会が増えて、その写真を通じて町に興味を持った人が来てくれるかもしれない(=移住や関係人口に繋がる)
という建付けで企画書を書いた。
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だいぶ強引だったけれど(笑)、答えのない「移住定住促進」の施策だったからこそ、捉え方や、目的意識次第で、どんなことでもその種になり得るのだと知ることができたと同時に、役場側で一緒に動いてくれた担当職員も同じ心持ちだと知ることができて、とてもいい機会となった。
その後も、大小さまざまな……いや、極小・小・中くらいの様々なプロジェクトを立ち上げては、小さな失敗やちょっと大きな失敗を繰り返す中で、地域の中に応援してくれる人や仲間が増えていった。
大きな失敗については、先日の失敗体験シェアに書いたとおりである。
変化していった活動スタイル
当時、社会人3年目のぺーぺーで「スーパーマン」からはまるでかけ離れた私が町に貢献できることとして、3つの方法があると考えていた。
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1年目はとにかく、町中を巡って取材をして、写真や文章で外向けに発信をした。
すると、外の人だけでなく地元の人が「そんなことが魅力だなんて」と再発見してくれることも多かった。
何より、役場の担当職員がとにかく色んな場(特にお酒の場ww)に連れ回してくれたおかげで、地域に知り合いが増えていったことに感謝している。
2年目、3年目は役場を離れて、地域の仲間と一緒にプロジェクトを立ち上げることも多くなった。
気付けば、私は物珍しい「地域おこし協力隊」というヨソモノではなく、理由もなく町に来て大好きとか言ってるちょっと変わり者の「たっしー」になっていた。
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また、紫波町は全国から訪れる視察者に
「来たついでに講演してください!」
というムチャブリ企画を結構やっていたので、全国の先進事例に触れられる機会も多かった。
そこで(ついでに打ち上げに参加させてもらったりして)知り合った方や、地域おこし協力隊というネットワーク(※)を利用して繋がった方を訪ねて各地へ視察に行くなど、新鮮なインプットを得る機会にも恵まれたことは貴重な経験だった。
※と言っても最初から顔見知りなわけじゃないので……
①興味のある地域を見つけたら「地域おこし協力隊」で検索
②(たいてい地域発信系の協力隊がいる)
③私も協力隊です!情報交換させてください!とDMを送る
④(たいてい相手も紫波町のことを聞きたがる)
⑤仲良くなって直接訪問する
という手口でいろんな人・地域と繋がらせてもらいました。笑
地方創生みたいな分野において「紫波町」という看板は本当に大きくて、情報交換の原資として大いに活用させていただいたわけである。
紫波町というホームを持っているということ自体が私のアイデンティティのひとつになりつつあるのを感じて、自分にとってはそれがなによりの財産であり成果だったと思っている。
人とのご縁と、7万枚の写真たち
3年間の集大成として、私は「Home Party」というイベントを開催した。
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私の3年間の成果が「人とのご縁」だとすると、私が繋がった人たち同士を繋げることが、最後の使命なのではと思ったからである。
どうしても紹介したい面白い人がたくさんいたから、いくつかテーマを決めてキャスティングした数人ずつに登壇してもらって、私が司会をするというトークショーをメインプログラムとした。
某テレビ番組の「トリオ・ザ・〇〇な女」みたいな感じ。
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会場は、大好きな日詰商店街で、当時空き家から生まれ変わったばかりの「日詰町屋館」をお借りすることができた。
日詰町屋館での公式なイベント第1号だったのも嬉しかった。
商店街へ足を運ぶきっかけになればと、イベントの告知もかねて当日までの1週間に渡り、オガールのギャラリーで写真展も開催。
3年間で撮影した写真は7万枚を超えていたので、写真選びが本当に大変だったけれど、インターンシップがきっかけで知り合った美大生の吉田彩花ちゃんの力を借りて開催した写真展は大盛況で、のべ200名近くの方が足を運んでくださった。
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これが正解だったのかは分からない。
町としてやってほしいこととか、期待とか、本当はもっとたくさんあったのだろうと思う。
けれど、3年で結果出す、は私には無理だった。
結果は未来に託すとして、それでも私は紫波町のことが大好きで、ここが自分の夢を叶える最適な場所だと思いながら、今もここで暮らしている。
地域おこし協力隊になってよかった。
何より、紫波町に来てよかった。
地域おこし協力隊というキャリアスタートのリスク
ただ、やっぱり新卒で地域おこし協力隊になるならそれなりの覚悟が必要だよな、とは思う。
それは、社員教育のような「人材育成」の観点がない地域おこし協力隊という働き方でキャリアをスタートさせるのは当人の人生にとってリスクが高いのではないか、という理由が大きい。
名刺交換やビジネス文書といったいわゆる社会人のマナー的なものから始まる社員教育が果たして有効で必要なものなのか、という議論は別にあるとして、それでも、世間一般的な社会人たるものに求められている常識や前提を知っているか否か、によって何かを判断されてしまうということは大いにある。
特に、そういう社会構造を生きてきた大先輩たちがまだまだ先頭を走っている地方において、それを知らないことによる損失は非常に大きいと感じた。
挨拶ができない子、と思われるだけで信頼構築のハードルがめちゃくちゃ上がる、みたいな。
地域おこし協力隊というのはその制度の特性上、3年間の任期期間に何らかの成果を出すことが期待されている。
だから、短期間で成果が欲しい採用側(自治体など)としては、人材育成という長期的な投資に割く時間もお金もないというのが本音だろう。
それは確かに分かる。
一方で、制度本来の目的を考えれば、任期を終えた後も定住することや、地域に利益をもたらしたり雇用を生み出したりするような事業を展開する人材となって欲しいはずだから、人材育成は決して間違った選択ではないと私は思う。
しかし、実情としては3年間のうちに回収できない投資をすることはなかなか難しいと言えるだろう。
(打開策としては、任期後の事業プランや長期的な価値を提示するなどして、自治体の理解を得る必要があるかもしれない)
実際、新卒や第二新卒で地域おこし協力隊になった人の途中離脱(任期満了せずに退任すること)が多い、と活動支援に入ってくれていたコーディネーターさんから聞かされて、私もハッとした。
私自身、第二新卒で地域おこし協力隊になったクチなので多かれ少なかれ「非常識」はあったと思うが、そういった些細な非常識からコミュニケーションに齟齬が生まれ、悩んでいるというケースはよく耳にした。
そうやって潰しがきかない数年間を捧げた挙句、地域にハマれなくて去っていく同世代あるいはもっと若い姿を見送るのは何ともいたたまれなかった。
企業で言うところの人材育成に代わるような、仕事やタスク的な能力ではない人間力みたいなものについても、自ら意識的に研鑽していく必要があるのかもしれない。
地域に入るワカモノに必要な2つのこと
ちなみに、それでも覚悟を持って地域に入っていきたいというワカモノなあなたがいるとしたら。これだけは持って行くといいよ、というか、私はこれに随分救われたよ、というものがある。
まずは「愛嬌」だ。
地域において、コミュニティの大半はかなり年上の人たちになる。
60代でもまだ若手、なんてこともあるくらいだから、ワカモノは「若い」というそれだけで可愛がってもらえる。
これは得だ。
可愛がってもらえるうちは、とことん、可愛がってもらった方がいいというのが私の持論である。
そして、そこに欠かせないのが「学ぶ意欲」だと思っている。
自分は不知であると自覚して、
「センパイ、教えてください!」
という姿勢でいること。
さらに言えば、その背中からも学ぼうとすること。
それは決して、「可愛がってもらうため」みたいな打算的なことではなくて、そういう姿勢でいると毎日が面白いのだ。
一見面倒そうなことも、楽しめるようになる。
(地域ってやっぱり面倒ゴトも多いよね、という話)
身の回りに起こるすべてのことを「学び」の視点で見てみると、地域の暮らしはもっともっと楽しくなる。
「びっこたっこ」って方言かなあ。可愛いなあ。
雪かきスコップってなんでこんなに種類があるんだろう。
どの店に行ってもあのおじちゃんに会うけど、どんな生活してるの?
りんごってこんなに種類あるんだ~。食べ比べてみよう。
ワクワクしたもん勝ちだ。
だって、自分が生まれ育ってきた環境とは全然違う、異文化なんだもの。
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さらに地域には、竜宮城みたいな、「先輩に連れてってもらわないとアクセスできないところ」が存在する気がしている。
それは物理的な場所や景色というだけでなく、文化や慣習みたいなことだったり、人の繋がりだったりもする。
地元の役場職員でさえアクセスできないような場所に、愛嬌があって学ぶ姿勢を欠かさないワカモノは連れて行ってもらえるかもしれないのだ。
もしかしたら、そこにようやく、あなた自身の人生のヒントが眠っているかもしれない。