探し物は探してない時にこそ
noteフォロワーさんの記事タイトルを読んで、胸に響くものがあった。https://note.com/clever_auklet146/n/n3a7542ff4821
何を隠そう…いや、別に隠すつもりもないが…私も一丁前に「選ばれる女」ではないことに右往左往していた時期があった。
特に、高校生ぐらいの頃は、みんなそういうものなんじゃないだろうか。周りに男女並んで歩く人々が増えるから…。
そもそも、小中時代の体験から「好きな子同士」という言葉がトラウマ級に苦手な私は、誰かに選ばれる選ばれないということに、人一倍敏感な人間に育ったのかもしれない。
頭の中で、ナンパすらされたことない=女として見てもらえてない存在なんだ、などという拗らせ方を、あの頃は、いくらでもしていた気がする。(今思うとナンパで声掛けるようなヤツに選ばれてうれしがるのは、どうかと思うけど)
その上、自分の恋愛対象は同性だと思っていたから「私を選んで欲しい」と思いを寄せる相手に、振り向いて「選んでもらえる」可能性は、更に低いわけで。(恋愛志向は移り変わったり、よりしっくりくる物に変えていいと知る由もなかった)
でも、選ばれる人になりたいだなんて、なんて受け身な姿勢だったんだろうと、今なら思う。好きな人であれ、運動であれ、何かに向かって選ばれようと努力している人が好きならば、分からないではないけど。
何も持たないただの惰性人間が、何もせずに選ばれるわけがないのだよ…過去の私…。
そこまで考えて、高校生の時に告白をしてくれた子には、改めて申し訳ないことをしたな…と思い至るのであった(苦笑)何もないはずの「こんな私」のどこかを、好ましく思ってくれたんだろうに…。
付き合うって、いったい何?と考えに考えた結果、微熱まで出して…試しもしなかった過去の自分め…。(と、定期的に後悔している)
選ぶ選ばれるなぞ考えもしてない時にこそ、自分にとって本当に良い出会いというのは、起きるんだと思う。失くし物が、探していない時に見つかるように。
Twitterフォロワーさんが言っていた。
『一緒にどこまでも「最適解」を探していけることが「愛」なのかも』
そう感じられる相手に、まさかTwitterがキッカケで出会えるなんて、思いもしなかったよ。
P.S.ちなみに、私も『置かれた場所で咲きなさい』は、置かれた場所で咲けなんて…と思っていた時期もありました(笑)しかし、二・二六事件に巻き込まれた方が書かれたと知り、そこから色々と察するところがあり、考えを改めました。「人の記事のタイトル」をキッカケに、この記事を書いておいてなんだけども。