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『本当はこわい「やさしさ社会」』
スーパーをさ迷っている時に、古本が敷き詰められた台車の中から救出し、衝動買いしたこの本。
新書というだけあって、社会学に詳しくなくとも読みやすく、また、どの文章も捨てがたいので、引用箇所に迷うものの、以下の通り引用する。
治療的やさしさには、“ひとはそのつもりがなくても、思いがけずだれかを傷つけてしまうことがある。そのときには、ことばで癒してあげればいい、それがやさしさだ。傷はいつかは治るのだ"という余裕があります。
それにたいして、予防的やさしさには、その余裕がありません。傷をつけたら一生消えないかのように考えます。しかし、何をすれば相手が傷つくのかを、最初にすべて正確に予測するのは不可能です。その不可能なことを要求するのが、予防的やさしさというルールなのです。
やさしさの中には、治療的やさしさと予防的やさしさがあると分類したのが、本書の肝だと思う。
予防的優しさの例として、筆者は「テレビで見かけた仲間を傷つけない為にあえて顔を歪め、ブスな顔でプリクラを撮る女子高生」を挙げていたのだが、私はこれを感覚として理解できる。
おそらく、その人は自分がかわいいと自信を持っているから「ブスを作る」のではなく、後から仲間内で目立ったり優劣がついたりした結果、誰かが傷付くのを怖れるから、予防的に「かわいさ」を回避している。
私にはその心理が、とても理解できる。
いわば、何重にも予防線を張ったやさしさと呼ぶべきか。私は、そういう優しさを怖いと思う。
社会には多様な人が住んでいて、人それぞれなのだから、なるべく傷つけないように振る舞うこと、それ自体を否定するわけではない。むしろ、そうあるべきだと思っている側面もある。
例えば、高齢者や若者と一口に言ってもその中身は多様だと知った上で、傷つけないよう予防的な振る舞いをするのは大事だと思う。他にも、何がセクハラ・パワハラだ、最近は言いたいことも気軽に言えなくなったと嘆く態度は、言葉の持つ暴力性に無自覚かつ無責任だとも思う。
ただ、そうかと言って、誰かを傷つけることを怖れるあまり、言いたいことを言わない、または言えずに我慢するのは、相手に対する本当のやさしさではないと、私は思うのだ。
私はそう思うというだけで、そう思わない人を否定するわけではないけれど。
(と、補足したくなるのも、ある意味で予防的やさしさだろう)
傷つけたり、嫌われたりすること、恥をかかせることを怖れる「やさしさ社会」は、却って「やさしくない社会」つまり、気楽でも気軽でもない、しんどくて厳しい社会を招いているのではないかと筆者は問題提起する。
筆者の言うような、気楽に話し、気楽に失敗を認め、気軽に謝り、気楽に許すことができる社会のほうに、私も住みたいと思う。
そのためには、言いたいこと、言うべきことは、口に出したり文章にして、勇気をもって伝える姿勢が大事だと私は思う。例えそれが元で、友人を失うようなことがあったとしても。