イチローが嫌いになってしまう心と自分
「イチローが嫌いだ」
YouTubeで作業用に音楽を流していたいた時、CMで流れてきてぎょっとした言葉がこれでした。
沢山の人が使っているネットの拡散力を使って、誰でも知っているような大スターを「嫌い」だなんて、なんて表現なんだ!と憤慨したのが1割。
残りの9割は、その言葉への共感でした。
この「イチローが嫌いだ」の後には続く言葉が、ちゃんとあって
「あの人を見ていると、限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」
そう。本当にその通り。
自分なんかどうせって想ってしまう気持ち。
自分が出来ない理由を自分の外に求めて、現状をなんとか肯定しようとする気持ち。
すごく心当たりがあって、そうされることで傷ついたこともあったって思い出した。
小学生の時、運動が得意じゃなかった私は勉強で頑張るしかないと思い込んでいて、普通は1ページやれば良いドリルを5ページやったりして、ひとり満足感に浸っていたことがあった。でも、それが鼻につく人も勿論いて
「お前がそこまでやるとこっちが頑張ってないみたいになるから、やめろよ」
と、クラスで一番足が速い男子に言われてひどく傷ついた。
それからは、自由帳みたいなノートを「自主学習帳」と名付けてそこにひっそりと漢字練習とか算数のドリルの回答を書いていくようにして、勉強をしていくようになっていった。
そうやってみんなが自分のやることを隠すようになっていったのだと思う。
中学に入ったら何部に入るかとか、どこの高校や大学を目指しているかとか。
将来の夢は何かとか、何が嫌いで、何がやりたいのかとか。
「イチローが嫌いだ」
あの時、自分が傷ついたはずの言葉を今は言う側になっていて、そうやって他人に背負わせた自分への言い訳は、色んなものを覆い隠してしまうから、その分叶う夢も少なくってしまった気がする。
でも最近、ラジオを聴いていて気付かされたこともあって。
「インスタグラムが嫌いだ」ってずっと話していた人が、でも最後には「インスタグラム大好きです」って話をしていて、とても納得してしまった。
インスタに写真をあげている人って、大勢で集まって美味しいものを食べていたり、「リア充」ってくくられている人が多いから嫌だって話していたんだけど、嫌いだったら見なければいいのに、その人はわざわざ時間を割いて他人の楽しそうな様子を見ているんだよね。
Youtubeみたいに悪い評価をつけられるわけでもないのに、そういう写真を眺めてる。で、そのうち「いいね」を押しちゃうらしい(笑)
私も美味しいご飯とかすかさず「いいね」しちゃうからすっごく共感して、MCの方がこの話を
「嫌いってことはつまり、憧れなんだよね」
と、さらっとまとめていて「その通り!」と大きく頷いてしまった。
嫌い嫌いも好きのうち、じゃないけど嫌いだと思っても目が離せないものにはきっと綺麗に言えば「羨望」、はっきり言えば「嫉妬」が含まれていて「自分もあんな風になれたらな、なりたいな」って願っているものなんだと思う。
だから、スタートがどす黒い嫌な気持ちでも、向上心としてそれは大切なものだから、無理に押し込めたり隠す必要はないんだなって、思いました。勿論、それを羨望の対象に言葉でぶつけることは間違っていると思うけど。
「だから、今はインスタグラム大好きです!」
それくらいさっぱりと、嫌いだけど好き!と素直に憧れを口に出来る人がきっと夢を叶えていくのだと思う。
「イチローが嫌いだ」CMは、賛否両論だったらしいけど、私は最後まで見るとすっきり「そうだよね」と思えるから、このCMを見かけると嬉しくなります。
「イチローが嫌いだ。でも、同じ人間のはずだ」
だから、自分ももっと出来るんじゃないだろうかと思えてしまう。
嫌いで、時に身勝手な言い訳を被せてしまうけれど、それでも彼の活躍からは目が話せなくて、胸が熱くなることがある。勇気をもらったことがある。
「嫌い」からスタートして「好き」に視点を変えて、その憧れに私は私として近付いていきたいな。
何かを嫌に感じる気持ちは、悪いものばかりでもないって話。