「縁を切る」の覚悟だけでご利益ある気がしたよ
愛してるの響きだけで
強くなれる気がしたよ
チェリーのこの部分が好きで、強くなれる気がする単語に出会うとすぐにこのメロディーがリフレインしてしまう。
「縁を切る」はまさに強そうだ。良くも悪くも間違いなく強い言葉。人生で初めて「縁切り神社」なるものに参拝した時に感じたこと。強くなれるだけじゃなくて、「縁を切ろう」と覚悟を決められた時点で、ご利益がある気がした。
失恋から2ヶ月ほど経ち、もう立ち直ったつもりだったのに再び気持ちが引き戻されてしまう時期あった。ふとした時に思い出し、眠れない夜にLINEや写真を見返し、もっと眠れなくなった。体も心も調子が優れない数日が過ぎた。
「そうだ、縁切ろう」、ふと覚悟が決まった。京都の安井金比羅宮なので、まさに「そうだ、京都行こう」状態。
縁切り神社の存在はその1ヶ月前くらいに知った。オンラインコミュニティで、ある方が「友人がサイコパスな男に振り回されていて可哀想なので一緒にお参りする」と、安井金比羅宮を取り上げていた。同じような男に失恋したての私は「そんな手もあったか」と興味を持った。
でもその時は「縁…縁までは切らなくていいな…」とやや怯んでしまった。失恋した相手とはまたいつか友人に戻るつもりだった。「今は別れたカップルみたいな気まずさだけど、時間が経てばまた共通の趣味を楽しむような友人に戻る」と思っていた。だから、失恋の治りが遅くても、縁を切るなんて無理だった。
でも冒頭の、もう立ち直ったはずなのにLINEを見返して眠れなくなった夜、改めて「縁を切る」という発想が浮かび、その時は覚悟ができた。
単純に1ヶ月という時間が経ったことに加え、その間の変化はいくつかあったけど、「友人に戻る」という考えの甘さを思い知ったことも大きい。趣味をきっかけに仲良くなった私たちは、恋愛モードになる前から2人で遊ぶこともあった。だから最後に「友人に戻ろう」と話して解散した私は、その状態を想定していた。また2人で遊びに行くこともあるかなと。
でも、相談していた友人Aにそれは無理だと指摘された。何もなかった男女が2人きりで遊ぶのと、「付き合う?付き合わない?」という恋愛的な揺さぶりを経て友人に戻った私たちが2人きりで遊ぶのは、全然意味が違う。
私が次の恋愛に進んでいない状態で2人で遊び始めたら、気持ちがまたその男に戻されてしまうかもしれない。
逆に私に彼氏がいたとして、本当にただの趣味友達なら2人で遊ぶのにも罪悪感もないし彼氏も気にしないかもしれない。でも、一時期恋愛的な揺さぶりのあった男とは、やっぱり申し訳なく思うし、彼氏も嫌だろう。
こうして1つずつ考えていったら、前のような関係に戻ることは無理だと気づいた。友人Aからは、戻れるのは「複数人で飲みに行くうちの1人」「偶然会ったら立ち話する」くらいの関係だと説明された。納得。
それまでうっすら抱いていた「そろそろ"友人として"連絡していいかな?逆に連絡くるかな?」という期待を捨てることができた。
それで、「よし、縁を切ろう」となった。別に相手の男から連絡があるわけじゃないのですでに縁はほとんど切れている状態だし、上述の「大勢で飲みに行く仲」に戻る縁を積極的に切りたいわけじゃない。
なので、「その男に執着してしまう私の心」と縁を切ることにした。
思い立ったその週末には、京都に行った。思いつきを実行できるフットワークの軽さとお金の使いやすさこそ、シングルアラサーの強みだ。「そうだ、京都行こう」を地で行ける私いいなぁと、改めて自分を好きになるきっかけにもなった。
いざ。ちょうど京都には友人Aがいたので、お参り前夜に飲みに行った。前夜祭とのことで、「今日が最後だから言い残した未練や思い出を散々喋っていい。その代わり明日からは一切思い出すな」とのスパルタ教育を受けた。ありがたい。
「あんな思わせぶりな態度ひどいよね」「こんな写真撮ったり、こんなLINE送ってきたりしたんだよ」などなど、思いの丈を語り尽くした。ありがたい。
でも正直この時点ですでに、「言われてみるとまだ喋りたいことってそんなにないなぁ」と思った。意外と、絞り出して1時間くらいで収まり、他の話題に移った。
「縁を切る」と覚悟して京都まで来た時点で、すでに私の未練や執着心は薄まりつつあるのかもと感じた。
迎えた土曜、お昼には安井金比羅宮に着いた。こちらのメインは「縁切り縁結び碑」。願いを書いた紙を持ち、正面と裏からそれぞれ1回ずつ穴をくぐり、石に貼る。1回目が悪縁を切り、2回目が良縁を結ぶご利益があるとされる。
その前に、入ってすぐに拝殿があったのでまずはお賽銭をしてお願いをした。いきなりで、なんとお願いしようか少し戸惑ったが、意外と心からスラスラ言葉が浮かんできた。
「彼との楽しかった思い出は大切にしまっておきたい。でも私は次に進みたい。もう期待すべきではない恋にしがみついて執着している自分が嫌だ。そんな執着と縁を切りたい」、こんな趣旨だったと思う。
手を合わせていたら、自然と涙が出てきた。
そうか、私はこう思ってたんだ、と自分で気がついた。そうだよね、思い出は綺麗なままでいい、でも次に進みたいんだよね。
縁切り縁結び碑に貼る紙に、さっき浮かんだ言葉を短くまとめて記入する。
碑の穴をくぐるための長い列に並ぶ。普段列に並ぶのは苦手だけど、今日はいくらでも並べる。このために京都まで来たんだから。他の用事は何もない。何時間だろうと余裕で待てる。
列の横には絵馬がたくさん掛けられていた。人様の絵馬を見るのはお行儀がよくないと思いつつ、多少は目に入ってしまう。壮絶な経験を書いている人もいれば、単純によいご縁を望んでいる人もいて、様々。でもみんな結局は幸せになりたいだけなのになぁと考えさせられた。
また自分の願いに思いを馳せ、少し涙が出てきた。楽しかった思い出が蘇る。
私の番の少し前、神社に着いた時からどんより曇っていた空から、ふと太陽の光が差した。綺麗だった。「大丈夫だよ」と言われた気がした。晴れやかな気持ちで穴をくぐり、新たな良縁をお願いしながら紙を貼った。
おみくじを引いてみた。「周囲の人に助けられる」と書いてあって、その通り、すでに助けられているなぁと感じた。
来たのとは別の入り口から出ると、鳥居に「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」と掲げられていた。隣には鮮やかな黄色の銀杏が生えていて、空は青かった。スッキリとした私の今の心を表しているようで、思わず写真に撮り、スマホのホーム画面にした。
もちろん縁切りをお願いしたからと言って、その男のことを全く思い出さなくなるわけではない。思い出すきっかけは街中にも私のスマホにも溢れている。でも、思い出した時に感情を乱されなくなった。
それまでは、何かのきっかけでその男との思い出が蘇る→「あんなに楽しかったのにな」「今も親しくしてたらどうだったのかな」と感情が引っ張られる→ずっと考えたり、写真を遡ったりしてしまう、という流れだった。
それが、何かのきっかけで思い出しても「はい。もう過去」と思えるようになった。
この時点ですでに私は十分なご利益を感じていた。もちろん、良縁があればもっと嬉しい。
縁切りは、縁を切ると覚悟できた時点で縁切りに向かっている。
縁切り以外も同じ。幸せや無事を祈るお参りも、そう思って神社やお寺、パワースポットなどに行った時点で、意思が明確になっている。
そして、その場で何をどう願うのか。言葉にすると自分の本心に改めて気づくことができる。
思い立って行った京都。紅葉シーズンは混むだろうと思いここ数年避けていたけど、意外とスムーズに、想像以上に素晴らしい景色を楽しめた。
今なら失恋相手に「京都の紅葉を楽しむきっかけをありがとう!」くらいの嫌味を言える。