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岬の果てのメッセージボトル

夏だ。
夏、夏、夏、夏が、
大好きなのに、毎年焦がれて、
情景だけを見るにとどめてやり過ごしている。
寂しいけど、寂しいのに、
海に行くことを許してほしい。

沼津の戸田漁港からほど近くにある小舟ヶ浜には、砂浜に佇む鳥居があるらしい。
私は岬が好きで、今自分の足が踏みしめている大地の終わり、果ての果てに行けるところまで行って、ああ、ここが端っこなんだね。もう、これ以上は行けないんだね、というところまで行きたいと思っている。たぶん、本当は踏む土がなくても身を乗り出して海の向こうまで沈んでしまいたいんだけど、そこまではできないからとりあえず岬や果てまで向かってしまうんだろう。
海の中では息ができないというけれど、海辺にいる時だけ自分の呼吸は楽になれるから、私は本当の意味での呼吸は、魚のように、海の中でしているのかもしれない。

ここまで来れば、もう大丈夫。
そんな思いがあった。どこまでもどこまでも、行けるところまで逃げたかった。
『今』から逃げたかった。

私は一人で遠出する時、レンタカーを借りてドライブするでもなく、バイクや自転車でサイクリングするでもなく、ただひたすらに、自分の足で目的地まで行く。車の運転は得意ではないし、バイクや自転車は持ってないし漕ぐ体力もないだろう。でも、なのか、だから、なのかわからないけど、公共交通機関をひたすらに乗り継いで行く旅が結構好きだ。同じ車両の向かいに座る人たちは、家族連れだったり恋人同士や友人同士なことがほとんどだけど、旅においては自分を知る人が誰もいないということはとても心地いい。音楽を聴きながら流れゆく車窓は、移ろい追いつくことのできない日々の可視化みたいで、受動的でありながら自動再生している感じがする。目に見えるものしかわからないのだ。

透明な透明な。
何も隠せないから、なんでも透き通っているものが好きだ。
海の青も近づくと青ではなくなる。見えている色が違う色に変わる。近づくほど深くなり足を取られる。でも、海底は想像もつかないほど深く美しい風景が続いているだろう。

岬の向こうには道が続いていて、どうにもこうにも映画のエンドロールは流れてくれない。
セーブポイントみたいに立っていた灯台に、自分の今いる立ち位置を照らされたような気がした。

綺麗な綺麗な海を見て、私は、私自身が私のことを許してあげない限り、自由なんてどこにもないんだいうことを思い知った。
きっと、どこへ行っても、心が許されない限り、どこでも苦しく息ができないだろう。私の海は、どこにあるのだろうか。探すことに気を取られてしまうから、どこだどこだと言うのもまた違うのかもしれないけれど。

幸か不幸か、今月に迫った引越しで心は変わらずとも環境は変わるのだから、時計の針だって去年とは進み方も違うはずだ。その証拠に、今この瞬間の針も、去年とはまた違う。
毎年進むだけなはずの1秒1秒、わからないなりに何を望むのか、考えてごらん。

片道何時間もかけて来た、戻れない岬の果て、noteという場所を借りて書いたこれは、自分に宛てたメッセージボトルだ。
どこかへ流れ着き、拾い読み直すことがあるかもわからない。書き終えた後、もう一生、読むことはないかもしれない。

楽しめないのは病気だ。
海なのか涙なのかわからないまま、自分を殺してしまう前に、私の海で泳ぎたい。

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