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諦めるのは“逃げ”ですか?

「諦めること」が許されない風潮



「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」

あまりにも有名な「SLAM DUNK」安西先生の名言です。

当時中学3年生だった三井ことミッチーは、この言葉に触発されて、試合終了間際にスリーポイントシュートを決めて逆転勝利を収め、安西先生がいる湘北高校に進学しました。
まさに、このたった一言が、一人の少年の運命を変えたといっても過言ではないでしょう。

当時思春期真っ盛りだった私自身も、漫画とアニメでこの名シーンを見て感動に心震わせましたし、その後の人生でも何かにつまずきそうになるたびに安西先生のこの言葉を思い出し、弱い自分を叱咤激励したものです。

しかし最近、そうですね、「生きづらさ」という言葉が世に蔓延しはじめた頃からでしょうか。
「あきらめたらダメだ」という意味合いの言葉が、逆に人々を苦しめる要因になっていないか、と思うようになりました。

「あきらめさえしなければ、いつか夢は叶う」
「あきらめることは逃げることだ。そんな弱い人間が、この先の厳しい人生に耐えられるわけがない」

親や先生、そして何より自分自身にそんな言葉をかけられ、現実の自分とのギャップを感じることが「生きづらさ」に繋がっているのではないか。

先の安西先生の名言も、「自分なりにどんなに頑張ってもうまくいかなかった人」には、「いつまでたっても終わりの見えないトンネル」を、それでも「あきらめずに走れ」と言われているようで、重い足枷やプレッシャーになってしまう恐れがあるのではないか。
そんなふうに感じることが多くなってきました。

でも、現実の世の中には、「諦めなくたって、時間が来れば試合終了」(年齢制限のある資格試験や不妊治療など)ということもあるのです。

精いっぱい努力してきたけれど、椅子取りゲームの椅子の数があまりにも少なすぎて、なんどチャレンジしても一度も座れなかった(超難関校の受験戦争や芸能オーディションなど)ということだってあるのです。

また一方で、「諦める」ことを否定的にとらえすぎる世の風潮に影響されて、「本当はもうやめたいのにやめられない」「もっと無理しない道に進みたいけど、その気持ちを親に言えない」ということだってあるでしょう。

念のため繰り返しますが、私は安西先生も、先に挙げた名言も大好きです💕

ただ「諦める」ことをネガティブにとらえ、「諦める=負け・逃げ」などと思い込んでしまうと、いつまでもゴールの見えない無限マラソンを走らされているようで、とても生きづらい状態になってしまう恐れがあります。

「諦める」ことの大切さ


でもじつは、「諦める」は仏教用語で、本来はけっしてネガティブな意味ではないそうです。
以下、日蓮宗のサイトから引用します。

諦(たい)という言葉は、諦めるという言葉で使われる事が多いですよね。
諦めるというと、ギブアップという意味で理解されている方も多いと思います。しかし諦めるの「諦」とは真理を意味する言葉です。
つまり諦める、とはギブアップではなく、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事を意味します。大切な仕事、人生の岐路になるような決断の時こそ「諦める」ことが肝心です。

・諦める、とはギブアップではなく、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事
・大切な仕事、人生の岐路になるような決断の時こそ「諦める」ことが肝心


目から鱗の解釈ですね。
現実、そしていまここに生きる自分をありのままに観察し、ありのままに認めること。
そのうえで「さて、これからどうすべきか」を改めて考えること。

SNSやTVなどで「キラキラしている」アイドルやその道のプロフェッショナルばかり見ていると、どうしても「この人たちはどんな困難にあっても諦めず、日々努力しつづけたから成功したんだ」と感嘆するとともに、
「それに比べていまの自分は……」と劣等感を抱きがちです。

でもそんな「ありのままの自分」を受けとめ、まだ発見していない新たな可能性を見つけるのは自分にしかできないことですし、それはけっして負けでも逃げでもないということ。
それは仏教の教えとして、はっきり明記されているということですね。

(以下、ネタバレあり)

「SLAM DUNK」最終回でも、山王戦で全力を出した湘北は、次の愛和学園戦でボロボロに敗北するんですよね。

賛否両論ありますが、私はこの終わり方も大好きで、さすが井上先生! と感嘆しました。

「勝つことがすべてじゃない」という、少年漫画ではなかなかお目にかかれないラストでしたし、「あなたには、このラストを受けとめることができますか?」と試されているような気がしたものです。

それはまさに人生そのもの。
負ける主人公や弱い自分を受けとめられるか。それこそが「強さ」なのかなと解釈しています。

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