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郷土の歴史の謎を追う

『琳聖太子と守護大名大内氏』

1 大内氏について
 山口は京都を模倣した町割りや華やかで優美な独自文化の発展で「西の京」として名高く、文化を導入した守護大名の名から大内文化と呼ばれている。     南北朝時代に周防の守護となった第二十四代大内弘世は、長門を手中に収めた後石見(島根県)、安芸(広島県)、九州へと勢力を伸ばした。続く第二十五代義弘は、紀伊、和泉の守護も兼ね、室町幕府にせまるほどの勢力を持つようになった。大内氏は貴族文化や大陸文化に強い興味を示し、朝鮮や明との貿易で蓄えた富をもとに、約200年に渡り街づくりや文化の受け入れを進め、第三十一代義隆の時代に絶頂期を迎え、山口が「西の京」と呼ばれるまでになった。

2 琳聖太子と大内氏の関係
(1)十五世紀後半に書かれた『大内多々良譜牒』によれば、琳聖太子とは百済国第二十六代聖(明)王の第三王子であるとされている。その琳聖太子は推古天皇十九年(六百十一年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として周防国大内県(あがた)を賜ったと云われている。その後、平安時代後期に多々良氏十六代当主盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主も大内姓を世襲していったということである。
(2)琳聖太子及と大内氏に関連する史跡
 山口県内には琳聖太子にまつわる史跡が数多く       ある。当時多々良が浜と呼ばれていた私の母校国府中学校の南東すぐのところには『岸津神社』があり、「伝・琳聖太子来朝着岸之地」という看板が立っている。
 また、防府市高井大日の丘陵にある全長四十五メートルの前方後円墳(大日古墳)は後円部に横穴式石室があるとともに県下唯一の家型石棺を持つ古墳であることから、近畿地方と強い結びつきを持った人物が葬られた可能性がうかがえるとのことであるが、琳聖太子を埋葬したという伝えもある。
 その他、山口市大内の乗福寺には琳聖太子供養塔が残っている。大内氏は南北朝時代、大内村を本拠として明使趙秩を歓待したことがわかり、禅寺乗福寺が外交機能を持っていたと云う。
 また、大内氏は妙見信仰を一族団結の中心としている。第十一代大内茂村は隆松妙見社を勧請して、興隆寺に上・下宮を建立し、大内氏の氏神として篤く崇敬した。妙見とは北辰、すなわち北極星を神とした中国の天帝思想に由来する外来神であって、密教と習合して天台宗では北辰妙見尊星王、真言宗では北辰妙見大菩薩と称する。興隆寺は大内氏にとって、領国内の結集を意味する寺であった。
 この妙見信仰と琳聖太子を結びつける話として『降星伝説』が下松市にある。
 周防の国鷲頭庄青柳浦にある松の大木に星(北辰尊星妙見大菩薩)が降り立ち、「聖徳太子に合うために来日する琳聖太子を守るためにやってきた」と語ったとし、この話を聞いた琳聖太子は聖徳太子に会った後に、青柳浦に立ち寄り、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を建立し、日本で初めての星まつりを行ったとされている。そして星が松に下った霊地として下松と呼ばれるようになったと伝えられている。
 私の実家のすぐそばに全長六十メートル以上の山口県下最大の前方後円墳とその南側の一部削り取って建立された車塚妙見社がある。
「鹿苑院西国下向記」に、琳徳太子の崩御後、車を収められた所として「車塚」というという記述がある。

3 大内氏の祖先伝説の形成とその背景
(1)第一段階                                            
 『李朝実録』によれば、千三百九十九年、大内義弘が朝鮮王朝に対し家系・出自を示すものと「土田」要求したとあり、この時初めて百済の王族の子孫であることを主張している。この段階では百済の王族であることは主張されているが、まだ、琳徳太子の名は見えない。『李朝実録』のその後には、仮に百済の始祖である温祚高氏の子孫ということにされて高義弘と呼ばれたという記述がある。
(2)第二段階  
 半世紀後の千四百五十三年、大内教弘が「琳聖太子入日本之記」を要求した。大内教弘の使者有栄が朝鮮国礼曹に文書を提出し、朝鮮に今大内の後裔がいるかどうか、琳聖太子が日本に入った際の記録を求めた。これに対し朝鮮側はかつて義弘を高氏の末裔とした際の記録を「古書」と称して与えるにとどまった。
 この段階で「大内氏の祖先である琳聖太子が、聖徳太子と協力して日本に仏法を広め、その功により大内の土地を与えられ本拠の地名から大内公と号した」という祖先伝説の基本的枠組みが出来上がった。
(3)第三段階
 祖先である琳聖太子に対して、『降星伝説』とその関連施設を興隆寺などに整備したり、社殿を展開したりして、その守護神である妙見が関係づけられる。
(4)祖先形成の背景
 戦国大名が「源平」「藤橘」やその他の中央貴族の嫡流れを名乗った中で大内氏が義弘以降唯一百済の末裔を名乗り、「聖徳太子―琳聖太子―多々良―大内」を強く関連付けようとする狙いはいったい何だったか。
 その背景にあるのは、大内氏が勢力を拡大していく中で得た朝鮮貿易を有利に行うために朝鮮との結びつきを強める必要性があった。大内氏は倭寇を禁圧し明や朝鮮と私貿易を行い、利益を得ていた。この朝鮮貿易や室町幕府・対抗勢力との関係において自らの存在を強化する必要があった。大内氏の歴史を振り返ると、南北朝時代に周防国と長門国に勢力を拡大、北朝の室町幕府に帰服した。更に筑前守護として九州に進出して少弐・大友氏を征伐して大内氏の北九州における優位を確立した。これにより朝鮮外交・貿易の基盤を築いた。当時、中国は明王朝の時代であり「日本国王」との通行しか認めていなかったが、「倭寇禁圧」という現実的な問題を抱えていた朝鮮半島の高麗・李朝は北九州や瀬戸内海沿岸の海上勢力や彼らに影響を及ぼせる武家との交渉にも力を注いでいた。
 そうした情勢の中にあって、「大内氏が琳聖太子の子孫である」と強調することが、朝鮮との外交・貿易を進める上で有利に働くとの思惑があったのではないかと一般的には見られている。実際、「百済の子孫」を称していた大内氏はその親近感もあってか、その遣使は「日本国王使」に次ぐ「巨酋使」と位置付けられ、室町将軍に次ぐ政治権力とみなされて重要視されていた。また、朝鮮から日本に派遣される使節は大内氏領の赤間関(下関)を通過することになっていて、瀬戸内海の海賊勢力から使節を安全に護送するためにも大内氏の協力が不可欠であった。そのために「琳聖太子」の物語が大内氏によって作り出され、肉付けされ、積極的に語られた。(須田牧子「室町期における大内氏と先祖観の形成」)。
 そして「日本国王之印」の通信符を用いて対外貿易を行うようになる。更に細川氏と争い明との勘合貿易の独占権も手に入れた。また、石見銀山のなどの精錬技術を向上し、その量は世界の三分の一を占め、鉱物の輸出と、漆器、扇子、刀剣、硯、屏風などを輸出し、明銅銭、生糸、絹織物、典籍、陶器などを輸入して巨富を蓄積した。この状況は義隆滅亡まで約三十年続いた。

4 歴史のロマン
 これまでのことから、琳聖太子の存在について  の決定的な証拠はない。琳徳太子の存在は伝聞もしくは大内氏の創作によるものと言えるが、それをもって琳聖太子の存在を否定することはできないと思う。前期古墳がみられない防府の地に前方後円墳が築かれ始めたことは、琳聖太子の存在を明確にする文献がないだけであるかもしれない。邪馬台国の卑弥呼の存在に決着がつかないように琳聖太子の存在もまた歴史ロマンとして存在すると思う。
 琳聖太子の話は大内氏による全くの捏造であったのか、来朝し帰化した琳聖太子の存在をベースに妙見信仰と結び付けて強化し積極的に語られるようにしたのか、防府市に点在する前方後円墳の被埋葬者が誰であったのか解明されない限り、歴史ロマンが尽きることはない。


5 参考年表
六一一年   百済聖(明)王の第3王子琳聖太子
が周防多々良が浜に着岸して日本に帰化すると伝えられる 

六~七世紀  横穴式石室、横穴墓などの群集古墳が県下各地に営造される 
 前方後円墳が前期古墳のみられない防府市にも築かれ始める

九〇一年   菅原道真が太宰府の権師に左遷される

       西下途中周防国勝間浦に立ち寄る

九〇四年   周防国司土師信貞が菅原道真の霊を周防の酒垂山に祀る (防府天満宮の創建)
(日本で最初に創建された天神さま(天満宮)と称される)

一一五O頃  多々良盛房が大内介に改名し、山口市大内を拠点とする

以後歴代の当主も大内姓を世襲

一三五八年  大内弘世が周防・長門両国を統一する

一三六四年  弘世、初めて上洛し将軍義詮に謁する。弘世、京の人気を独占

一三七三年  明使趙秩が来山すし、大内氏の館に滞在する

一三九九年  義弘が、倭寇を禁圧した功と大内氏が百済王の末裔であることを理由に朝鮮王国に故地に分譲を求める。朝鮮国王、義弘の功績をたたえ土地の給賜を命ずるが、重臣の反対で実現せず

一四五三年  教弘が、僧有栄らを朝鮮に派遣し琳聖太子の『日本入国日記』を求める。この時、朝鮮国王、通信符の印を教弘に贈る(現存)

一四六一年  雪舟が教弘に招かれ来山し、明国に留学する

一四六三年  雪舟が帰朝して山口に住む

一四六七年  応仁の乱

一四六九年  幕府の教弘使船帰還、政弘の兵、土佐の海上で遣明幕府船、細川船搭載の銭貨と新勘合符を奪う

一五二三年  寧波の乱で博多商人と結ぶ大内氏が博多商人と結ぶ細川氏を破り勘合貿易の覇権を握る。

一五五一年 大内義隆の滅亡で、貿易は廃絶した    

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