屋久島で思ったこと。
屋久島は鹿児島県の南の方に位置する島で、その島の一部が世界自然遺産に登録されていることで有名である。屋久杉、縄文杉、ウィルソン株、ハート型の切り株などと言われたら、みなさんも知っているのではないだろうか。そんな島で私が思ったことを書かせていただく。
まず、宇宙飛行士の野口聡一さん曰く、「生まれて以来見てきた全ての人々、全ての生命、全ての景色、全ての出来事は、目の前にある球体で起きたこと」だそうだ。
うん、間違いない。自分は日本一周をしてる身で、市や県というのは小さいものだが、日本は大きいと度々感じる。そして、世界は日本国土の何十倍、何百倍とある。これは想像できないほど大きいのだろう。しかし、宇宙飛行士からしてみれば目の前にある球体である。
そして僕が朝5時に起き、5時間かけて11キロの道のりを登り、雪をかき分け、やっと見えた縄文杉なんてのは、歴史から見ても、宇宙から見ても、確認できないほど、ほんの小さな一コマであろう。
私にとって、神とは、自分及び人類以外の自然などの全てセオリーオブエブリシング(TOE)である。
私がマクドナルドで考える宗教感だったり、正義だったり、私が学校で習ってきた世界中の「歴史」、戦争や虐殺、弾圧、飢え。「地理」、気候や地震、津波、噴火。「政治」、帝国や大統領、汚職、法律。「経済」、社会主義やデフレ、恐慌、国債。その全てがたった一つの目の前にある球体で起きてること。所詮そんなことなのである。
その球体の正体とは、と私に聞かれたら。それは、TOEから始まり、量子であり、原子であり、分子であり、それらの結合体であると私は答える。
仏教での釈迦、ゴータマ・シッダッタ、ブッダは涅槃(死ぬ、無に還る)前、全ての欲や嫉妬、生きたいや死にたいと考えることでさえなにもない状態だったと言われている。俗に言う、解脱である。そして、釈迦は死ぬ前に「草から動物まで平等だ」という様な言葉を言い残している。つまり、釈迦は死んだのではなく、無に還ったのだ、TOEのループに戻ったと言い換えても問題ない。釈迦の量子及びTOEは、草にも成りえて、動物にも成りえるのだ。
より大きく言い換えると、地球の何にでも成りえれる。つまり、地球そのものなのだ。
そこまで行きついた私の思考が、縄文杉の前で流した曲は一つ。SUKISHAの「釈迦の手のひら」である。
何十万とある動植物、何十万とある思想や正義、何万とあった時間、何万とある人種や民族、何百という国、その全ては一つの球体に収まっており、その球体の手のひらの上で踊っているに過ぎない。
あぁ、なんと自分はちっぽけな存在なのかと思わない方が難しい。しかし、それと同時にこんなちっぽけな存在でも一緒に付いてきてくれた人がいて、応援してくれる人がいて、見守ってくれる人がいた。世界ではそれを愛と呼ぶらしい。
※中途半端な知識での仏教と量子論の解釈です。