彼らはただ、そこにいて。
花の写真を撮りはじめたころ、思っていたことがある。
コスモスは、表情の幅が広くてすてきだ。
天気や時間帯によって、それぞれに異なる表情を見せてくれて、そのどれもが人を惹きつける力を持っている。
一方あじさいは、その点あまり器用ではない。明るく撮りたいと思うのだけれど、何ともうまくいかない。
物憂げで神秘的ではあるけれど、もっと違う魅力を引き出してあげたい。
今があなたの季節だよ。
もっと素敵に、輝いてほしいのに。
だからぼくは、あじさいがあまり好きではなかった。
暗いし、風に揺られないから、覇気がないように見える。
梅雨どきの花なのだし、それは仕方がないのかもしれないと。
でも、そんなあじさいに、ぼくは教えてもらったことがある。
寒さの厳しい、ある冬の日。
カラカラに乾いて風化した彼らの姿を、ぼくは見つけた。
花が枯れて、命を失ったようでも、彼らはただ我慢づよくそこにいて、生きていた。
梅雨が終わり、夏本番を迎えて、紅葉があたり一面を飾って、寒さに凍える季節が来ても。
彼らはただ、そこにいて、ふたたび花開く季節をじっと待っていたんだ。
何とうつくしい、と思った。
今にも消え入りそうな命の、そのはかなさとたくましさに、感動した。
思えば桜も、花が散ってもその樹はずっとそこにいて、いずれまた自らが景色を彩るときを待っている。
散って、枯れて、いなくなってしまう花もあるけれど、季節が来れば、また当たり前のようにそこにいて、同じ花を咲かせる。
たんぽぽがその綿毛に次の命を託すように、きっといつも、そこにいるんだ。
花だけではないけれど、季節が移ってまた新しい季節が来て、ぼくは何となく、いろいろなものを風物詩として消費してしまいがちだ。
それはともすれば、物ごとの表面だけを見ていて、深くを知らずに過ごしてしまっていることにもなるのではないかと思う。
今もそう。
知らないこと、見えていないことが、山ほどある。
いったいどれだけ目を見開いて過ごせばわかるようになるのだろうと、自分がとてもちいさなものに思えてくる。
今想像できることが見えた先にはまた見えないことがあって、それをまた追いかけて、きっと人生はそんなことの繰り返しなのだろうけれど。
今日ふと目にとまったあじさいを見て、思い出したこと。
写真を撮るということは、人生勉強なのかもしれないな。
いつもこうしていろんなことを壮大なテーマであるかのように捉えて過ごしているわけではないけれど、物ごとの真理は、生きる上でのヒントは、案外こういうところに隠れているのだろうな、というのは、間違っていないような気がしている。
そして、そんなあじさいは、今ではぼくの大好きな花のひとつになった。
いつもお付き合いいただいてありがとうございます。
よかったらまた、遊びに来てください。
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