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雪の……
雪はひらひらと舞い降りて、桜の花びらみたい。そっと両手ですくってみると、花びらが一枚、二枚、三枚ほど取れた。それはとてもうれしい出来事だったけど、その花びらは実際のところ雪の結晶だったので、私の体温で溶けてしまった。図鑑で雪の結晶の拡大写真を見たことがある。隅から隅まで何か規則的で、対称的な形をしている。そして美しかった。一説によると、人の美しさと身体の免疫の機能には関係があって、免疫の機能が良好であるほどに、その人は対称的で美しい容姿をしているのだと言う。健全さと美しさ。世の中には病気の人もいれば健康な人もいるけども、それらの間に明確な境界線はないから、どんな人でも健康な面もあれば病気の面もある。その意味では、みんな健康なのだし、みんな病気なのだ。美しさの理論はたくさんある。例えば、ヴェブレンは顕示的消費という概念を提唱している。これは簡単に言うと、資源の無駄遣いをすればするほどに美しさが出現するというタイプの理論だ。なぜなら無駄遣いできるためにはそれだけの余裕が必要だから、それができている個体は資源的に余裕があるということで美しさをかもすようになる……そういう理屈。あるいはバウムガルテンは美と有効性を直線的に結ぶ。つまり、美しいものというのは無駄であるどころかその実有効であるから美しさをかもすようになる……そういう理屈。ヴェブレンの場合でも、バウムガルテンの場合でも、圧倒的な資源を保有している人が美しさを表すとする点は共通している。ただ、その資源の使い道が違うだけだ。ヴェブレンは資源を無駄遣いする方がかえって有効であると考えたし、バウムガルテンはもう少し素朴に美は有効性の証であると立論した。二人の考え方を合わせると、要は資源をどう使うかはどうでもよく、資源を潤沢に保有している個体が美しいと感じられるのだとする帰結を産む。例えば、一般に病気は無駄であり、健康は有効であるとされる。この時、無駄であれば無駄であるほど美しく、健康であれば健康であるほど美しいのなら、病気かつ健康という二つの現象を両義的に高い水準で兼ね備えている人が最も美しいということになる。ここで気になるのは資源という言葉の意味である。それはお金だろうか? だとすればすべての美男美女がお金持ちでなければおかしい。実際には美人のすべてがお金持ちであるとは言えない。では、権力だろうか? しかし美人が必ず権力者であるともやはり言えない。「色男金と力は無かりけり」という言葉がある。美男子には金も力もないものだ、という意味の言葉である。すると、美しさを生み出す資源というのはお金や権力とはまた別の何かであることになる。世の中には多様な資源がある。お金や権力はそのすべてを表現し切ることはできない。私の掌で溶けてしまった儚い雪の結晶は、とても美しかった。美しさというのはそういうふうに儚いものなのだろう。それはお金でも権力でもなくて、そういう目に見えやすいものを絶したところから確かな魂を供給されて、私の掌の上に降ってきてくれたのだ。私の頭上に広がる高い高い空からそっと。小さな小さな美しさの欠片。私はそれがたまらなく愛おしく感じられた。水になってしまった結晶たちの残滓を体温のある掌がぎゅっと握りしめた。今は消えてしまった真っ白な花びらの記憶が決して錆びつくことのないように。ずっと君と。