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「太古の宝」探しについて

今日は、「漢籍」を引用して思索を進めてみたいと思います。漢籍というのは、簡単に言うと漢文の本のことです。一応、私の翻訳とかも載せてあるので、中国語とかが苦手な方でもある程度楽しめるようにしているつもりです(笑) ただ、私は文章が下手と言うか、とても分かりづらいところもあるかもしれないので、そうしたところがあったらお手数ですがコメントなどでご指摘下さい。間違いの指摘などもあれば歓迎です。よろしくお願いします。

では始めます!

一個目の引用はかなり有名だと思うのですが、孔子の『論語』からです。

十一之一
子曰:「先進於禮樂,野人也;後進於禮樂,君子也。如用之,則吾從先進。」(孔子, 『論語』, 「先進第十一」より引用)


以上は孔子の『論語』からの引用です。以下私訳です。

礼節と音楽において先に来る人は、教養のない人である。礼節と音楽において後に来る人は、立派な人である。もしこうした事情によるならば、その時は私は先に来る人に従う。

「先」か? それとも「後」か? どちらが良いのでしょうね。これはこれで難しい問題になるものと思います。先に何かを行った人が偉いのか、それとも後に何かを行った人が偉いのか? 皆さんはどっちだと思いますか? 何かご意見などありましたらコメントなどでお聞かせください。

上記の説によれば、孔子は自分が従うべきものを先に来る人(先進)であるとしています。つまり、基本的に先にやった人が偉いんだ、という価値観の一種としてこれは捉えられるかもしれません。しかし、後から来たものの方が技術が洗練されていて立派に見えやすい気はします。例えば、一般的に考えるとライト兄弟が先に発明した飛行機よりも現代の私たちが知る後の方に属する飛行機の方が立派にできているようには感じられます。すると後から来るものの方が機能的に優秀だから、先にやった人たちはそれに比べると教養がないように見えます。例えば、私達の原始人に対してのイメージはどことなく「野蛮」なものである場合が多いかもしれません。こうした感じ方は原理的には後から来たものの方が従うべきものであるとする孔子の説とは反対の考え方に基づいています。例えば、私たちは特に考えずとも時代を経るごとに技術は進歩して洗練されていくとするような価値観をやんわりと共有しているように思います。これは科学の時代になってからは特に強力な印象となっているのではないかとも思いますが、こうした現代の進歩主義的な価値観は孔子のそれとはどうも相容れないのかもしれません。孔子は、後進ではなくて先進に従うと主張しているからです。おそらく、この先進を重視するか後進を重視するかというのは、時代というもの、あるいは歴史というものに対する感受性の差異によって特徴づけられているのではないかと思います。簡単に言うと、「古代は現代よりも善である」と考えるのなら、当然、先に来ていた人々、古代の文化としての先進の考え方を重視するようになるはずです。一方、「現代は古代よりも善である」と考えるのなら、後から来た人々、現代から未来にかけての文化としての後進の考え方を重視するようになるものと思われます。要は、「昔はよかった」と考えるのが孔子で、「今が最先端だ」と考えるのが科学主義的な説だと言えるかもしれません。つまり、雄大な時間の内のどの時点を重視するかでその判断が変わってきます。こうした差異はかなり根本的に政治の派閥を構成するものであるように思えます。例えば、単純に考えれば昔の伝統を重視するのは保守派でしょうし、今の最先端技術を重視するのは革新派であると言えるでしょう。このようにこうした時間における権力の配分の様式は、人の思想や立場を決定づける機能を持っている点において極めて重要だと思います。

ここで私が気になるのは、統合失調症の人達はどっちなのだろうな? ということです。つまり、先進を重んじるのか、それとも後進を重んじるのか……。究極的には人によるとしか言えませんが、統合失調症の人達の時間意識とかについて書かれた研究とかあったら見てみたいな、と思います。この点は要研究ですね。

ちなみに私はこの問題に関して孔子と同じ立場です。つまり、先進を重んじます。だから古典を大切に読むわけですね。古い書物は優れている、というような感受性が先立っているために、そのような行動が生起するものと考えられます。実際、数々の歴史上の古典は現代の私たちからすると想像できないくらいに優れています。現代ほどに科学技術が発達していなかったはずなのになぜこれだけの学説や芸術が花開いたのかは謎としか言えませんが、それこそ天才たちの為せる業なのでしょう。私もできる限りは天才たちを応援したいものだな、と思います。彼らの創造した極めて優れた数々の宝物は多くの人達の生活の向上や心的安寧に貢献すると思うからです。

とは言え、そもそも「宝」というのも面白い概念です。宝とは何でしょうか? これにも様々なものがあります。例えば、宝石のようなもの、あるいは宝剣のようなもの、人であれば美人とか才人とか、その他にも色々な宝が存在し、究極的には何が宝であるかは人それぞれなのかもしれません。

また、古代の仏教の教説には、こうした「宝」についての記述が散見されます。では、二個目の漢文をちょっと引用してみましょう。


無量宝交絡 羅網遍虚空(世親, 『無量寿経優婆提舎願生偈』,菩提流支訳より引用)


以上は世親の『無量寿経優婆提舎願生偈』の菩提流支による訳文からの引用です。以下私訳です。

計り知れない宝物が入り交じり、網が虚空の隅々まで行き渡る

おそらく、この文章で特に分かりづらいのは、「羅網」つまり現代の言葉で言えば「網」の概念だと思います。後は「虚空」とかもあまりピンとは来ない方がいらっしゃるかもしれません。まず、これらの概念について考えてみたいと思います。

「網」とは何か? 網というのは何かを捉えるために使われますね。何かを捕獲したりとか、捕まえる、得るために使用されます。つまり、網というのは基本的に「何か価値あるものを獲得するための手段」を意味するものと想定できます。例えば、上記の文で言えば、「無量宝」つまり「量として計測することができないくらいに莫大な宝物」がその獲得される価値ある対象であると考えられます。

次に、「虚空」とは何か? 虚空というのは虚ろな空間のことです。要は、どこまでも広がっていく無限に大きい空っぽの何もない空間ですね。これを虚空と言います。原理的にはこの虚空の中に全てのものが存在しています。現代人の価値観で言えば、「宇宙」などの概念はこれに多少は近いかもしれません。地球の外側にも宇宙がずっと広がっています。そういうイメージ。より正確に言えば、その宇宙の外側にも世界が広がっていて、世界の外側にはもっともっと広い別の世界が広がっていて……というふうに無限に空間が広がっていきます。そうした全てを内に含む無限に広大な空間のことを仏説では虚空と呼ぶのです。

さて、では基礎的な用語の確認ができたところで、実際に上記の引用文の解釈に移っていきます。

まず、計り知れない宝物がそこら中で入乱れていることが分かります。それを示しているのが、「無量宝交絡」という文です。つまり、無量なくらいに莫大なたくさんの宝物が交わり合い、絡み合っている状景です。想像してみてください。まるで網の目のように、たくさんの宝物が広大なネットワークを構成しているようにも見えます。その次に分かるのは、何かを獲得するための手段としての「網」(羅網)が世界全体に広がっていく様子です。これを示しているのが、「羅網遍虚空」の文章ですね。羅網が虚空に遍く行き渡っていきます。そして、その虚空の中は、「無量宝交絡」な状態にあります。つまり、そうした虚空の中に隅々まで「網」が行き渡るということは、それらの数えきれないたくさんの宝物がすべて獲得されていく様子を示しています。

つまり、上記の引用文について簡単にまとめると、「無限にたくさんの宝物が余すところなく全て獲得されていく」というふうに意訳することができます。とても的確で、美しい文章です。一見、了解不能に思える文章も緻密に思考して丁寧に見ていけば、思いもよらない美しい景色を見せてくれるものです(こうした事情は、統合失調症の人達の述べる言葉に近いものを感じます。一見、了解不能に見えることもありますが、どの言葉も実は素晴らしい創造的な発想に満ちています。統合失調症の人達は素晴らしいと思います)。

仏教というのはこのような感じの教えをそこかしこにたくさん散りばめていて、それらの一つひとつがまさに金言です。仏教自体がまるで「無量宝交絡 羅網遍虚空」であるとでも言うかのような並外れた勢いを感じます。

仏教などのしっかりした古来からの宗教を正統に信仰している人は、あらゆる世界のありとあらゆる宝物を余すところなく獲得していくのかもしれません。そう考えると、何かすごいですね。

今日は二つの漢籍から引用させていただきました。古代の人達に感謝ですね。素敵な知恵を現代にまで残してくれてありがとうございます、と私は伝えたいです(笑) 引用文の文末に典拠は示しておきましたので、興味を持たれた方などいらっしゃいましたら参考になさってみてください。

みなさんの人生が、「無量宝交絡 羅網遍虚空」な感じに、計り知れないくらいめちゃくちゃ幸せなものでありますように。祈ります。

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