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「甘え」の倫理学

「甘え」の概念にも色々な複雑な構造が絡んでいて、とても難しいのですが、少し説明してみます。

一般には「甘える」というのは「依存する」というふうに変換されることも多く、例えば「恋人に甘える」というフレーズは「恋人に依存する」のように変換されて認識されることもしばしばあります。

では、「依存」とは悪なのか? という問いも当然出てくるのですが、これは「何に依存するか?」によって善悪が分岐します。

つまり、神様に依存すること(「帰依」あるいは「他力本願」などと言います)は善であり、それ以外の偶像に依存すること(「偶像崇拝」あるいは「多神教」などと言います)は悪である……というふうになります。

依存そのものが悪であるわけではないんですね。むしろ「何に」依存するか? というのが重要な点なのです。

さて、ここで甘えの議題に戻ってみます。そしてこの時に、「恋人に甘える(依存する)」ことは悪なのか? と問いましょう。結論から述べれば、これはその人の「能力」の高さによって変わります。

例えば、ここに書かれている理論などを十分に理解できるだけの知能が欠けている場合には、正統な「信仰」を持つことはその人の能力の範囲を越えている現象であることになりますから、信仰がなくても罪にはなりません。一方で、十分な能力や才能、天分が備わっているにもかかわらず神様に背いた場合には、それは罪になるわけです。

要は、低知能であればあるほどに神様以外のものに甘えても許される……と言えます。逆に、天才であればあるほどに神様以外のものに甘えることは許されない……ということになります。

ただ、「天才」と言っても究極的には不完全な一人の人間ではありますから、時に甘えたいこともあるでしょう。その場合、その人の不完全さに見合う分だけは甘えることができます。誰しもその人の能力を越える重荷が背負わされるべきではない……というわけです。これは天才の場合も例外ではありません。

美男美女の天才カップルなどは非常に心に訴えるものがあります。しかし、それはその人たちの「強み」よりもむしろその「弱み」ゆえに許されたささやかな「幸福」なのですね。とても強い人ほどに、実はとてもか弱くて繊細な面も持ち合わせているものです。美しさも才能も絶大な苦しみに正しい仕方で耐え抜いたことによる成果物ですから、私は才色兼備の人たちをとても尊敬しています。

「絶世」的によい優れた資質が豊かであるほどに、どうしてもこの世では生きづらいものです。色々な難しい事情はありますが、いずれにしても知能の如何にかかわらず、知能の低いものも高いものもそれ以外のものも、すべてのものが「幸せ」であれるように。時に弱り甘えつつも、強かにそれぞれの道を邁進できるように。祈ります。



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