つなのすけから歴史を辿る。壮絶な最期を遂げる、三浦一族!編
三浦一族の鎧を着ることで、陸に上がれるようになったつなのすけ先輩。
その歴史を辿るため、三浦一族の歴史を紐解くことにしました。
つなのすけの歴史を辿る旅、ラスト。
これまでの内容は、是非、過去の投稿をご覧ください。
第一話:つなのすけから歴史を辿る。三浦の祖は桓武天皇の孫の孫!編
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さて、三浦氏が仕える源頼朝ヨリトモは、遂に源平の戦いを制し、
初の武家政権となる鎌倉幕府が誕生します。
しかし、そのわずか7年後、ヨリトモ急死します。落馬らしい。
頼朝の後を継ぐのは、嫡男の頼家ヨリイエ、若干18歳。
ヒヨッコ頼家には任せておけない!
そこで出来たのが「13人の合議制」です。
メンツは
大江広元(おおえのひろもと)、三善康信(みよしのやすのぶ)、中原親義(なかはらのちかよし)、北条時政(トキマサ:頼家の外祖父)、北条義時(ヨシトキ:トキマサの次男)、三浦義澄(ヨシズミ:頼朝挙兵以来の忠臣)、和田義盛(わだよしもり),比企能員(ひきよしかず:頼家の義父)、梶原景時(かじわらかげとき)、八田知家(はったともいえ)、安達盛長(あだりもりなが:頼朝時代からの忠臣)、足立遠元(あだちとおもと)、二階堂行政(にかいどうゆきまさ:頼朝時代の側近)であった。
三浦のヨシズミ先輩が、この13人合議制のメンバー。いちメンバーどころか、北条家とテッペン争うくらいのVIPだった!
こんな重鎮メンバーがサポートに当たるんだから、鎌倉幕府も安泰でしょうと思ったら、そんなに甘くありませんでした。
なんと、若き将軍、頼家ヨリイエは、13人のメンバーでもあり、かつ祖父でもある北条時政トキマサにより伊豆は修善寺に幽閉、後に殺されてしまいます。
身内怖ぇぇーーーーーーー!!
北条一族の暴走は止まらず、次々と有力御家人を暗殺していき、ついに北条氏にとって残る有力御家人は三浦氏のみとなっていました。
その頃の三浦一族の棟梁は、三浦泰村(みうらヤスムラ)。義澄ヨシズミの孫にあたります。
三浦氏はあくまで静観の構え。
そこに、安達景盛(あだちかげもり)が登場します。
景盛カゲモリの父は13人の合議制のメンバーでもあった、安達盛長(あだりモリナガ)。
その息子、景盛カゲモリはゴリゴリの三浦打倒派で、何としてでも三浦一族を滅ぼしたい。
しかし第5代鎌倉幕府執権、北条時頼(ほうじょうトキヨリ)は少し及び腰。
そんな時頼(トキヨリ)に業を煮やす景盛カゲモリは、三浦泰村ヤスムラを挑発します。
「三浦泰村は近日誅罰されるので謹慎するように」との立て札を鶴岡八幡宮の鳥居前に立てたり(景盛カゲモリが指示したらしい。姑息だな)、
手下に命じて三浦邸を襲撃させたり、
そして、そんな景盛カゲモリの度重なる嫌がらせに重い腰をあげた北条時頼(トキヨリ)、遂に三浦を討つことを決めます。
しかし、この期に及んでも、三浦泰村ヤスムラは動かない。
泰村ヤスムラに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の墓前で死ぬべしとして三浦一同に法華堂へ来るように命じました。
そしてヤスムラ。
「我らは義明ヨシアキ以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、根も歯もない作り話で討ち滅ぼされるという恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、父義村ヨシムラは他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」
涙で声を震わせたという。
相模一の豪族と言われ、源氏に仕え、北条に勝るとも劣らぬ勢力でありながら、三浦泰村ヤスムラは、法華堂で一族500余名とともに自刃。
ここに三浦宗家は滅亡します。
泰村ヤスムラ、泣ける・・・・・・・・・・・・!!!
しかも、最期が頼朝の法華堂・・・・泣ける・・・・・・・・!!
この下剋上、騙し討ち、裏切って当たり前の時代に、なんたる忠義。。。。
その三浦一族の歴史を知ると、三浦一族の鎧を着たつなのすけが誇らしく見えてくる。誇らしく見えるどころか、愛おしくて堪らない。
なお、ここに三浦宗家は滅びますが、この時、分家の一部は命からがら、なんとか逃げ落ちます。それが、現在の三浦姓に繋がっているんだとか。
つなのすけに出会ってなかったら、こんな気持ちに一生ならなかったかも。
ありがとう、つなのすけ。
ありがとう、三浦氏。
そして私はこれからまた、三浦半島に向かいます。
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