つなのすけから歴史を辿る。三浦一族と源平の戦い!編
前回の続きから。
三浦一族の鎧を着ることで、陸に上れることになったつなのすけ先輩の歴史を知るため、桓武天皇の孫の孫(玄孫 やしゃご)から後の三浦氏が誕生するところまでは紐解いたものの、、
このあと、三浦の祖にたどりつくまでに下調べしていたら
源頼信(みなもとのよりのぶ)だの、源頼義(みなもとのよりよし)だの、清和源氏(せいわげんじ)だの、河内源氏(かわちげんじ)だの、平忠常(たいらのただつね)の乱だの、平直方(たいらのなおかた)だの、前9年の役だの、後3年の役だの、阿部だの、清原だの、出てきて、このままだと、一生つなのすけ先輩にたどり着けないと思ったので、
省略します。
時は、平安末期。
この頃の武士たちは、戦(いくさ)で功績を残した恩賞として、土地を与えられておりました。
ここに「そちの働き、見事であった。褒美を取らせよう」
として桓武天皇の玄孫のその先何代目か・・・の村岡為通(むらおかためみち)という人が、1063年に三浦の地を賜り、衣笠(きぬかさ)の地に城を築きました。為道はここから三浦姓を名乗りはじめたと言われています。
衣笠は、神奈川県 横須賀市 衣笠町としてその名を残します。
さて、この三浦為道(みうらためみち)こそが三浦一族の祖と言われています。
この頃、東国武士のテッペン張ってたのは源氏でした。
三浦一族も源氏に仕え、相模国で最大の武士団に成長します。
(ちなみに相模国ってどこやねん↓)
(三浦一族は源氏に仕えたってことなのですが、三浦一族は元を辿れば「平家」に辿り着くんだけどなと思ってみたり。ただ、平家も源氏も何世代も経て、その過程で婚姻関係を結んで親族だったりするし、「平家」vs「源氏」と単純に対立構造を描きがちだけど、その関係性はもっと複雑なんだろうな・・・)
話を戻します。
当初、権力者たちを護衛する役割であった武士が、徐々に、その力を固めていき、朝廷での発言権と影響力を強めていきます。平安末期、朝廷を巻き込んで武士の二大勢力が対立します。
その二大勢力とは、平氏と源氏です。
時は1159年。後に武家政権を開くことになる源頼朝(みなもとのヨリトモ)の父、源義朝(みなもとのヨシトモ)は、不満に思っていました。
上皇と天皇は公家の言いなりだし、公家に飼われた平氏は調子のってるし。
ってことで、謀反を起こします。(これ、平治の乱)
まず上皇と天皇を閉じ込めます。
で、上皇の側近で、権力を意のままにしていた藤原信西(ふじわらのしんぜい)という貴族を殺害。
信西は自分が朝廷で好き勝手やるために平家を厚遇していました。信西殺害の報を聞きつけた平家は、黙っちゃおられん!
天皇と上皇を救い出し、義朝(ヨシトモ)軍を撃破。鎌倉を目指して落ち延びようとしたヨシトモとその長男、義平(ヨシヒラ)を捕らえて殺害。二男、頼朝(ヨリトモ)は伊豆の蛭が小島(ひるがこじま)へ流され、三男、義経(ヨシツネ)は京の鞍馬寺へ預けられました。
この時、頼朝ヨリトモ13才、義経はヨシツネは1才です。
源氏方も主要メンバーは次々と殺され、源氏は朝廷の表舞台から姿を消します・・・。
それから時は流れ、1180年、頼朝(ヨリトモ)34歳の時です。
遂に、平家打倒の狼煙を上げます。
そして、ここ相模の国、三浦にも立ち上がった男が。
三浦の祖と言われる為道(タメスケ)のひ孫にあたる三浦義明(ヨシアキ)が頼朝(ヨリトモ)の挙兵に応じて立ち上がります。
そして、三浦一族 vs 平氏方の武士@衣笠が起ります。(衣笠城の合戦)
大軍に囲まれ敗北を覚悟した城主の三浦義明(ヨシアキ)は、闇に乗じて同胞を逃した後、一人城内に残り孤軍奮闘します。自らが捨石となる代わりに、源氏再興の暁には子孫が要職に就くことを願ったのです。
もはやこれまでと悟った義明ヨシアキ、一本松の下で自刃します。
その松は、神奈川県横須賀市大矢部に「腹切松公園」(はらきりまつこうえん)として残っています。おっかない名前の公園・・・!
さて、衣笠城を脱出した息子の義澄(ヨシズミ)らは、頼朝と合流し、この1か月後、頼朝は大軍を率い鎌倉入りを果たします。
日本はこれより源平の戦いと言われる内乱状態に突入していきます。
義澄(ヨシズミ)は、その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げ、義明ヨシアキの願い通り、三浦一族は源氏重臣として重用されていくのです。
しかしながら、それも長くは続かず・・・
ここから三浦一族没落までのお話については・・・
次回に持ち越し!!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?