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「毎日温泉」カワクボカノン個展に寄せて❶

2階喫茶空間にて展示が始まりました。早速ご覧いただいた皆様ありがとうございました。
さて、蛇足かもと思いつつ、
企画から開催の所感、展示の感想を店主目線からつらつらと書いてみました。
展示をみようとご予定いただいてる方は、読まなかったり読んでみたり、それぞれいい具合にお願いいたします〜🐅

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別府に親戚がいる縁で、小さいころから里帰りついでに観光をしているというカノンさん。
まわれ虎がオープンしてから、本屋らしく?別府らしく?ひょんなことがあり出会った。
その辺りのことはここでは割愛するが、東京出身の同世代かつ学生時代もそう遠くないところにいたらしいと分かり、その頃ちょうどまわれ虎での展示企画を立てたいと考えていたタイミングだったこともあって、何かやってみましょうか〜と始まったのが今回の企画だ。

当初は夏祭りを開催しよう!と話していたが、かくかくしかじかあり、時期がずれ込み、展示+本の制作が企画の柱になった。

全体のテーマは、湯の町の暮らし。タイトルは「毎日温泉」となった。
打ち合わせを重ねるごとに、「別府はおばあちゃんち」のカノンさんと、「気づいたら別府に流れ着いていた移住者」の私たちの間に、別府に対する印象や感覚、見てるものの差異が浮かんできた。さらに、今回のトークのゲストに招くゲンシシャの藤井さんは別府出身だが、その3者でも感覚が違う。言わずもがな、立場や個人の違いは当然にあるはずで、驚くべきことではないが、分かり合えるようで何かが違う、そのズレが思っていたよりも大きく感じられて、どうも引っかかる。共通する感覚がきっとあるはずだと探るが、手応えがあまりない。

確かなことは、ここ(別府)には行き交う人々皆をまるっと受け入れる、絶え間なく湧き出る湯水のめぐみがあり、浴場があるということ。町中でも浴場でも、彼らの視線が行き交い、しかしその焦点はそれぞれ微妙にズレている。ところが誰も彼も、湯に浸かれば忽ちやわらかく、あいまいに、境界がほどけて溶け混み合ってしまう。湯は誰のものでもなく、同時にただ私のものであり、みんなに平等に温かいから。その事実は、たとえ温泉に入らずともこの町にいるだけで、私たちのことを安心させるのだと思う。
だから別府にいると、違う人たちが出会いやすく、出来事が起こりやすく、流れやすい。

いま、2階の展示・喫茶空間には、既視感のある人の顔や場面が、その視線が、気だるげにズレながら行き交っている。カワクボカノンの描く人物たちは、温泉地に抱きがちな、おおらかさやゆったりした一般的イメージとは正反対とも言えるようなうつろな目をしている。そこに、「毎日温泉」という言葉から連想されるような、うららかな空気は全くない。描かれる人々や風景もどこの都市とも捉えられる様子で、別府らしさは示されない。個別の作品にはタイトルもなく、唯一の手がかりの「毎日温泉」というキーワードが、宙ぶらりんになる。
しかし、まやかし、はぐらかすようなカワクボの画風が呼び起こす違和をじわじわと感じながら、彼らと自分との距離や関係値を温泉を介して計り直していく。すると、湯の町・別府の不思議な力が見せている幻影が薄らぎ、無気力な現実や人々のズレが明らかになってくる。ああ、なるほどこれが「毎日温泉」か、と思わされてくる。

外から別府にやって来るとまず、機械的な時間の流れとは違う、大地のおおらかな時間にするりと巻き込まれ、大抵の人が心地よく感じる。けれども、移り住んでから1年半が経った私には、別府が段々と日常になり落ち着いて、別府も時計通りに働く、なんてことはないひとつの地方都市であり、現代的な課題や苦味に溢れているのだなと冷静に見えてくる。今回の展示でカワクボが描く人々は、どこの都市にも溢れていて、もれなく別府にも暮らすその辺の人々だ。この町には特別に面白い力がはたらいているけれど、ゆるくおおらかに受け入れられながら惰性が懐柔されていく感覚もある。もしかして私はなにかを誤魔化されている?「毎日温泉」はまるで、そんな私の躓きを可視化するようだ。別府と我が身を顧みて、足下を掬われそうになりながら、そんなことを考えている。
そこから始まる、私と別府のこれからは一体。

(まわれ虎・もな)


はてさて、
「毎日温泉」ひきつづき
展示は9/30まで、
9/22はワークショップ、
9/23はトークイベントです。
どうぞお立ち寄りください♨️

グッズも店頭・オンラインにて販売中〜
https://mawaretora.stores.jp/ 

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