良い問いと笑いについて。

※2018年に書いたものの再構成です。

「良い問いを見いだすことは,問いに答えることよりも難しい」

かの睡眠研究の巨匠、柳沢正史先生の座右の銘である。示唆に富んだお言葉だと思い私も銘記している。

そしてある日、この言葉がお笑い番組を見ていた私の頭の中で以下の様に変貌を遂げた。

「良いボケをすることは、ボケにツッコムことよりも難しい。」

それは「誰も気付かないことを見つけ出す」という意味で似ていると思ったからである。しかし、この2つには大きな違いがある。それは以下の状況を考えると分かる。

よく芸人のボケに対し、テレビに向かって「それは〜だろ」とドヤ顔で突っ込むオッサン(とも限らない)がいる。しかし、周りの者からすると、誰にでも分かるボケに対し「自分だけが気付いた」が如く突っ込むオッサンは見っともなく映る。

しかしこの状況こそ、先の「大きな違い」を見つけるヒントになる。

「良いボケ」において大事なのは「誰にでもツッコめること」である。(注釈1)誰にでも理解できるからこそ、誰にでも伝わる笑いになる。一部特定の人にしか理解できないのであれば、それはいわゆる「内輪ネタ」の範疇を出ない。そして内輪ネタは一般にサムイ。

一方、研究者における「良い問い」において重要なのは「誰も分からない」ことだろう。今まで誰も答えに辿りついていないからこそ、場合によっては誰も問題に気付いていないからこそ、大いに研究する価値があるということになる。

しかしだからといって、「良いボケ」をすることの方が簡単というわけではあるまい。「良いボケ」には誰にでも伝わることが肝要である一方、誰にでも気付ける視点からのボケであればさして面白くない。起きている現象に対し、思いもよらぬものに比喩や結び付けを行い、しかもそれが分かりやすくてかつ的確であるからこそ面白い。(注釈2)

研究のお題目は突飛であればあるほど面白いが(語弊しかないですね、御免なさい)、ボケにおいてはそうはいかない。独自の視点と一般常識との間で繊細なバランス、絶妙な塩梅を取ることが求められる。そういう意味では、こちらのほうが難しいと言えるかもしれない。(もっとも目指す場所が違う以上、優劣を付けることは愚劣である。)

結論

研究者は役に立つお堅いことを考えていて、芸人はおちゃらけたことをしている様に見える。しかしその思考過程においては「誰も気付かないことを見つけ出す」という共通性が見られる。目的の違いから生まれてくるものは異なるとはいえ、その意味において、いずれの仕事も極めて頭脳的で高尚なものであると言える。

(注釈1)いわゆる「ツッコミボケ」は、ツッコミの体をしたボケであると考えボケの一種とします。
(注釈2)ダチョウ倶楽部さんに代表されるような、分かりきったことをやるからこその笑いもあるのが議論をさらに難しくするが、今回は省略。

メモ

質問力に関してはこちらの末尾にも。
逆を考えることが大事らしい。


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