『セカイ、蛮族、ぼく。』から『虐殺器官』を読み解く。/伊藤計劃研究
要旨:読み比べると興味深い点が出てくるよ、て話です。
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バカSF。なぜ蛮族。なぜ『グラディエーター』。
短編『セカイ、蛮族、ぼく。』に対する感想は、こんな所でしょうか。
内容は勢いあまりアホそのもの。
冒頭からして、テンポは恐ろしく早い。
批評としてのツッコミどころは以下になります。
この「お前どう見ても蛮族だろ!」は、さらなる描写で裏打ちされます。
最初は「えっ比喩かな……」と思うも、まあ比喩じゃないですね。
アックスを叩きつけ生肉をかじる。いやどう見ても。
見た目も蛮族、行動も蛮族。頭脳こそ青二才ですが、外面には一切反映されていない。つまり作中では誰にも分かりません。テキストを読む側にだけギャップが分かる訳です。
これにも当然ツッコミがある訳です。「いや無理でしょ」「本当にそのつもりがあるなら今すぐ出来るじゃん」と。
セカイのせいにしてるけど、やってる事はマジで蛮族だし。
外面と内面。ギャップをこうも露骨に提示されると、コメディでしかあり得ません。読んでて思わず突っ込まざるを得ない訳ですから。
そしてここまで考えると、ひとつ疑問が浮かびます。
「じゃあギャップが露骨でなかったら?」――つまり蛮族くん(仮)がそこまで蛮族でなく、言い訳もまずまずだったら?
もうお分かりでしょう。素朴で露骨な『虐殺器官』こそが『セカイ、蛮族、ぼく。』なのですね。
実際、『虐殺器官』のクラヴィス・シェパードには相当なギャップが存在しています。
冷静に考えるとツッコミどころがある訳ですね。「いろいろ言ってるけど、結局は殺し屋やんけ」と。相当有能で、特殊部隊に志願するほどやる気もあるじゃないか、と。
こう考えてみると、『虐殺器官』と『セカイ、蛮族、ぼく。』は案外近い。少なくとも、外面と内面のギャップについての話なのは同じです。
同じ話のはずですが、ある意味で『虐殺器官』は失敗しました。
いや、成功しすぎた、と言うべきでしょうか。
クラヴィス・シェパードの言い訳はもっともらしく、有能さと青二才のギャップは、作中から拾い集めなければ分からない。誰もがツッコミを入れるにしては、読む難易度が高すぎた訳です。
読まれるはずだった、『虐殺器官』の理想像。そんな理想の『虐殺器官』こそが、『セカイ、蛮族、ぼく。』であったのかも知れません。 (完)
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