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あの叙述トリックは失敗だったのか?(完) 師弟関係/『虐殺器官』読解
( 第二回から続く )
不意に覚えた、世界の終わりを言祝ぐ感情。
衝動は当時、誰にも伝わる事がなかった。
ある意味、当たり前の話ではある。
吐露されぬ思いはただ、個人の空想に過ぎないのだから。
世界が終わると思った。ぼくのからだといっしょに。すこしうれしかった。このうたが、そういう気持ちにさせてくれた。
自分は最低だ。
そして、まだこれを聴いている。
世界の終わりを「すこしうれしかった」と言わしめる感情。衝動は無論、世界を救う英雄のものではあり得ない。
一方で、まぎれもなく自ら抱いたものだ。何ものにも代替され得ない、自分一人だけの感情。
そう自覚したとき、何かが繋がったのではないか。自分は決して英雄ではない、むしろ悪役の側なのだと。
そんな自覚からか、作家はさらなる一歩を踏み込むに至る。英雄を主役とする二次創作、そこからの離脱に。
初期短編『海と孤島』から漫画『The Terminal Beach』『CUBE AUTHOR』『ネイキッド』を経て、『メタルギア』二次創作での語り手は主に英雄の側になっていた。それがデビュー作たる『虐殺器官』では遂に、語り手は明確な悪役へと変貌している。
およそヒーローとは言いがたいキャラクターを、物語の語り手に据えること。作家としての道はここにあったのだ――たとえそれが、作品の完成度と引き換えであったとしても。
主役像の交代による、作品の変化。
この事は、デビュー前の作品と比べると分かりやすい。
作家には実は、セルフリメイクと言っていい作品たちが存在している。2006年冬の二次創作漫画『チルドレン オブ ウォー』、そしてデビュー後2007年9月の短編小説『The Indifference Engine』だ。
オリジナルかどうかの違いを除けば、両者の背景はほとんど同じである。P・W・シンガー『子ども兵の戦争』を下敷きに、元・子ども兵の目線から紛争国家の実情が語られる。
一見ほとんど同じ、だが主役の境遇が違う。
片や一度は救い出された男。
片や救いの手からこぼれた男。
その結末も必然、異なったものだ。
それぞれの終わりを、ここで引いてみよう。
雷電「――スネーク おれは本当にこっち側の人間なのか?」
雷電「かつておれは間違いなく「エフィだった」」
雷電「子供の頃から大勢の人間を殺してきた」
雷電「男も女も関係なしに それがおれの「居場所」だった」
(雷電の右頬に平手打ちをするスネーク)
スネーク「お前にはローズがいる」
スネーク「それ以外に理由が必要なのか? 甘ったれるな」
(銃声を聞きつけて来た子供兵たち)
雷電「――エフィの部下たちだ」
スネーク「雷電 彼らを説得できないか」
雷電「――無駄だ 彼らは投稿しないよ」
雷電「子供の頃からそう教えられてきたし」
雷電「それを正してあげるべき社会は彼らを追い出した」
雷電「だからスネーク ここを生きて脱出したかったら 彼らを撃つしかない」
雷電「信じてくれスネーク 現実の話さ」
スネーク「――雷電」
雷電「だってむかし ぼくは――ほかならぬその子供だったんだから」
『チルドレン オブ ウォー』での主役・雷電は、子供兵だったことを「むかし」とし、過去との決別を告げる。しかしその決別は、あくまでも個人のものだ。生きて脱出したとして、その先はどうか? 他の子供兵たちの話は、何ひとつ解決してなどいない。
遺棄されていた小型核を手に、子ども兵を束ねるキャラクター、エフィは問いかけている。子ども兵時代の友人・雷電へと、愛称で。
エフィ「ここにいるみんなは街で、村で、石つぶてを投げられて追い出された仲間たちさ」
エフィ「誰かの親を 誰かの娘を 殺したり犯したりしたぼくらを誰も許しちゃくれない」
エフィ「それが大人たちに銃をつきつけられてやった事でもね」
エフィ「こいつを首都に撃ち込んで ぼくらは居場所を切り開く」
エフィ「「平和」とやらにはぼくらの居場所はない」
エフィ「だからジャックも戻ってきたんだろ?」
子ども兵たちの居場所。
その拠り所のなさは、『The Indifference Engine』でも扱われている。
許されなかった者たちの連帯。
そんな形で真摯に、けれども穏やかでない形で。
ぼくらは行進する。
ぼくらは行進する。
彼方の道のまたたきに向かう。
生活の匂い、文明の匂い、平和の匂い。
涙が出るほどいとおしく、ぼくらが求めて止まないものだけど。
それも今は昔のはなし。ぼくらは楽しくそれらを壊す。
のろまもせっかちも皆いっしょ。
のっぽも、ちびも、てんでばらばらな足並みのままにそこに向かう。
必要なのはAKだけ。そんなものはそこらじゅうに転がっている。拾って自分を証明すればいい。きみがきみであることを。
さあ、そいつを脇に抱えたら、ぼくらの列に加わってくれ。
ぼくらの見たかった景色はすぐそこだ。一緒に来るなら、期待してくれてかまわない。
二次創作とオリジナル、漫画と小説の違いはいったん置いておこう。
短編として、両者は高いレベルで完成している――しかし。
どちらにオリジナリティがあるか。どちらが鮮やかに印象を残すか。
どちらが真摯に、作品として成立しているか。
そう問われれば。
一片の終末を描いた、デビュー後の短編になるはずだ。
書きたい題材とは何か。
自らに向いた題材とは。
両者の一致する者は自然、作り手に向かう。
では、そうでない者は?
両者の一致していない者が、それでも作り手を目指すなら?
複雑に折り合いながら、向いている題材を見つけるしかない。
そんな機微に気づける者は、思われているよりずっと少ない。
書きたいこと、向いていること。それらをつかみ、意識していく。
苦闘し呻吟し、旅路の果てに一ファンは作家となった。
きらめきこそあれど、決して初めから作家だった訳ではない。
そして。
デビュー前後のこの変遷に、恐らくはただ一人、気づいた者がいた。
気づき、考え、そしてたどり着いた者が。
それは誰か? ふたたび、資料を引こう。
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