あの叙述トリックは失敗だったのか?(1)小松左京賞落選からデビューまで/『虐殺器官』読解
「『虐殺器官』エピローグの「大嘘」とは何か?」 では作中の描写を照らし合わせ、「大嘘」の存在を立証した。お読みの方々にはおおむね納得頂けたようで何よりだ。
該当箇所を引用し、照合し適宜解釈する。結果として、誰もが気づく難易度となった。
ただしそれは、地道な作業を経ての話だ。決して普通の読み方ではない。
有り体に言えば、あの叙述トリックはかなり分かりにくい。気づかせるための技術が足りていない――そう思われても仕方がないバランスだ。
成功を「大勢の読者に気づかせる」とするなら、あの叙述トリックは失敗である。なにしろデビュー長編なのだ。いくら才人でも、そうした失敗があり得るようにも思える。
だが、作者の意図という点ではどうだろう? 読者に気づかせるのが二の次だったとしたら?
考え過ぎとも思えるこの説は、ゆえなき事ではない。真偽を確かめるため、まずは作家のデビュー前後から追うとしよう。
『虐殺器官』の仕掛けについては、最初期から議論があった。応募先だった小松左京賞での経緯について、いくつか記録が残されている。
第7回・小松左京賞の応募総数は129作、二次選考では13作にまで絞られていた。そして『セルフリファレンス・エンジン』(※応募時タイトル)も『虐殺器官』も、最終選考へ進出している。
既に触れた通り、結果は「受賞作なし」だった。
『虐殺器官』はなぜ受賞しなかったのか。いくつか理由が挙げられており、なかでも動機の分かりにくさは、この時点で既に指摘されていたのだ。
「虐殺の言語」を仔細に書くかは作風の問題でしかないが、それはひとまずおこう。
この時点での『虐殺器官』は新人の、いや、デビュー前の作家の作品である。違和感を作者側のミスと錯覚し、仕掛けを読み落としても不思議はない。
加えて留意すべきは、初稿と単行本とで異同が存在することだ。
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