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ライティングは人生を変えるか。

 天狼院書店という書店の名前を聞いた事がおありだろうか。
 それでなくても「書店」という名は本読みの心をわし掴むのに、カメラの講座や生産性の上げ方、アイディア、果てはクラブ活動まで、知ると目を離せなくなってくる企みを次々と展開させている「ただならぬ本屋」だ。


 そこの看板講座のひとつに、「ライティング講座」がある。2000字の文章を書けるようにする講座。「なんだ、2000文字」と思いはしまいか。20×20の原稿用紙5枚分。夏休みの読書感想文的なイメージだ。10万字と言われると「おっとー?」と思うけれど、これならまぁ、書けない量ではない、日本人なのだから、日本語の文章ならばなんとかなる。そんな気はしまいか。
 ……しかし、実際は、この「書ける」という言葉がクセモノだ。


 私はまず最初に、昨年の5月の連休、この講座を受けた。講座内容は門外不出なので書けないが、講座期間毎日2000字書くミッションがあり、最終試験がある。途中、出した課題の文章が合格ラインなら、天狼院書店のウェブページに掲載され、「メディアグランプリ」という人気投票に挑戦できる。しかし、私の文章はこの合格点に立つことなく、しかも最後の課題をクリアすることもできなかった。この時、残念ではあったけれど、なんとなく「そうかぁ」くらいの感覚だった。きっと、こもごも諦めるのに慣れていたからだろう。いや……自分が出来ない事に気づかされて傷つかないよう、自分に期待しない事、だろうか。
 知識が増えたのだからまぁそれでいいや収穫はあったと考えて終わった。そこから積極的に何かを書くこともなく時間が過ぎていた。

 さて、そんなライティングゼミを、私はそれからほぼ半年後の昨年末、冬休み講座として再び受講した。理由と言われると明確には応えられないけれど、もしかしたらやっぱりちょっと悔しかったのかもしれない。2000字ちゃんと書けるようになりたかったのだ。
 結果から言うと、このチャレンジは無駄ではなかった。2回目の講座を受け、凝り固まっていた自分の頭にもやっと理解ができたのだ。気付くのが遅い話かもしれないが、私はライティングについて講座の最初の最初に教えられた事、その大前提が、実はわかっていなかった。ただ、日本語として意味が通った2000文字を書けば良い、エッセイ的にそれが面白ければ良い……と思っていたけれど、そうじゃない。『目的』を達成するための2000文字を組み上げていく作業が必要なのであって、書いている内容が文章としてなりたっているというだけでは不足なのだ。誤解を恐れずに言えば、「役に立つ」文章であること。取説的なお役立ちに限らない。「人の感情を動かす」「興味を惹き、なんらかの行動を起こす」……すべてを簡単に完結に集約すると、「お金を払ってもイイやと思われるものを書けるようになる」、というミッション。
 たとえば、駅前によくあるようなパンフレット置き場に無数に2000字の文字が書かれた紙が並んでいたとして、その中から、そこ通る人が思わずお金を払って買ってでも持って帰りたいと思うような、価値ある2000字だ。とんでもなく高いハードルなのはいうまでもない。そして、そこまでは判った気がしたけれど、結局のところ、最初に講座を受けた時にぶちあたった悩みは変わらない。


 「私には人に伝えられるほど、価値ある経験・思考等々の持ち合わせがない」つまり、何を目的に据えて書いたらいいのか、迷子になっている。そういえば、前回もその力ある目的設定ができないというところで、「じゃあ、語るべき事が起こった時に悩んで書けばいいや」という気持ちになって、諦めてしまったのじゃないか。


 思いつくことはできても、どれもコンテンツとして成り立つほどのものではない気がする。ちょっと書けるかなと思うような事を書き出すと、上から目線のような文章になってしまう。果ては自分にはとてもそんな文章を考えだせる日は永遠に来ないような気がしてくる。


 同じ講座を受講する他の受講生諸兄の課題提出された文章もどんどん読んだ。とても特別な経験や二ッチな趣味で「読みたい!」という文章を書かれる方もいるが、日常の生活を切り取るような内容で合格をもらっている方も少なからずいる。読んで価値があると思ってもらえる文章、そのハードルがどんどんどんどん高くなっていく。


 凹みながらも、ひとまず、あまりにも自分の中には引き出しがすくないと気づくことができた。そこで本屋で購入してまだざっと目を通しただけの雑誌や区民センターでもらったコミュニティ誌を改めてじっくり眺め直して、そこに無数に載っている記事について「何を目的に」「どんなタクラミで」書かれているのかに気をつけながら読んでみたりした。良いものもあれば、どうでも良いと思ってしまうものもある。そうやって読むと自分がこれらの文章について、今まで本当に何も考えずに情報だけをチェックする速読流し読みのような読み方しかしてこなかった事をも知る。


 なるほど、身近にあるからこそ、その真価に気付かない。文章というのは、私たちにとっては古女房のような存在であるのかもしれない。ライティングというのは、きっと、この古女房をテレビドラマの主役にしたてあげるような魔法だ。私の魔力ではまだまだ経験値が浅すぎる。日々のほんの一瞬に浮かぶような思考のかけらをも種として、忘れないうち逃さず書き留めておいたり、自分の周りにある文章にいつも注意を払い、目から吸い込んだものを脳で消化して自らの栄養にし、それを元に花を咲かせる必要がある。

 せめて今回最終の課題提出までには、1本でも、合格させられる文章を組み上げたいと思うから、今も一生懸命だ。四六時中なんらかの網を張り続けているような心持ちで正月まだ二日目だというのに、心が全然休まらない。
けれど、天狼院のライティングゼミにはこんな枕詞がついている。

「人生を変える」ライティングゼミ。

 講座を受け、その意味については重々頭には入っている。人生が変わるほどのものになるなんて、そんなの一部の才能ある人だけだろう。そんな風に思いながらも、頭を絞る作業は苦しいのに楽しく、出来る出来ないは不問で、ただ、チャレンジする事をやめられない。思えば、こんな風に答えのない何かに一生懸命取り組むのは、もしかしたら自分の人生では初めての事ではないだろうか。


 私は、天狼院のライティングゼミに参加した。この事だけで……どうやら既に、私の人生も、ちょっと変わり始めてきているのかもしれない。


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