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「できる日本語」は絵がある「みん日」ではない
みん日を使い慣れた方と話していると、いろいろなことばを聞きます。
よくあるのがこちら。
「教科書は道具。教科書の例文はただの素材。だから、教師の教え方によってどうにでもなる。みん日でも、コミュニケーションを目的とした授業は可能。」
うん、そうなんでしょう。
私もそう思ってました。
そして、そうおっしゃる方の中からはこんな声も聞こえます。
「出てくる文型も、その並びもみん日とだいたい同じじゃん。でき日って結局、絵がたくさんあるみん日だよね?」
これを聞いた時は吉本新喜劇さながら、ずっこけそうになったわけですが、この発言のどこがおかしいのか、うまく説明できたことがありません。
今日はこの2つの意見に反論してみようと思います。
教科書が教師を作る(こともある)
「みん日」と「でき日」はコンセプトが全然違う教科書です。
教え方に工夫さえあれば、教科書なんて関係ないというのは、ある意味正しいですが、特に経験の浅い先生にとってはそうではないと思っています。
それは教科書そのままやれるからとか、準備時間が短縮できるからというのを超えた話です。
大げさかもしれませんが、私は教科書は教師の日本語教育観に大きな影響があると思います。教科書を教えているうちに、ビリーフが出来上がっていくと言っても過言ではないと言うか…。
みん日のような文型積み上げの本で長く教えてる方にお伺いします。
ことばがポンポン出ていても、初級の文型が正確でないと、レベルが低く感じませんか?
て形やない形ができない学習者に会うと、活用が入ってないから、基礎からやりなおしたほうがいいと思ったりしませんか?
レベルチェックでは初級文型が入っているかどうか、活用ができるかどうかを中心に聞いていませんか?
受け身や使役は「大事な文型」と思っていませんか?
実は、私もそうでした。
残念ながら、これ全部現在のスタンダードではありません。
なぜ、私たちがスタンダードから外れてしまうのか?
それはみん日がそういう本だからです。
みん日で教えていれば、ある意味正しい判断だと思います。
文型積み上げの教科書( というか、オーディオリンガル)は、授業で文型の定着を目指します。
1回教えたことは覚えているのが前提になります。
既習項目の上に、次の学習項目を積み上げ、定着させるのです。
だからこそ、前の内容が「入っていない」と、「できていない」ことになりますし、教えた内容が「入っていなければ」、やり直しすることになります。
そして、「文型が入っているかどうか」はその正確さで判断します。
そうなんです。
文型積み上げで長くやってきた日本語教師のレベルチェックはほとんどの場合「文型の正確さチェック」になってしまうのです。
私なんぞは、発話がたどたどしいのに、みん日後半の語彙や文型が出てきたりすると、「おっ、なかなか難しいのを知っているぞ?」と思ってしまうほどでした(苦笑)。
私のような方は一度日本語教師でない人の評価を聞いてみてください。
普通の日本人がある外国人の日本語を評価する時、初級の活用が正確かどうかは全く聞いていません。
自分が言ったことか通じたかどうか。
相手が言いたいことがわかるかどうか。
つまり、コミュニケーションが取れているかどうかを聞いています。
私たちは日本語教育の専門家ですが、こういう普通の感覚もないがしろにしてはいけないと思います。
そして、専門家であるからこそ、国際的なスタンダードであるCEFRやOPIの指標をもう1度きちんと読み直す必要があります。
文型の正確さは必要ないとは言いません。ですが、それは能力の1つであって、全てではありません。
いつだったか、Twitterに「みんなの日本語は新任の日本語教師が勉強するのに一番いい教科書だ」というような主張が流れてきたことがあります。私はむしろ、これから日本語教師になる方には文型積み上げの本で誤った概念に慣れて欲しくないと思っています。
文型積み上げで育った私は今でもこの感覚が抜けなくて、苦しんでいます。
教えることの本質
今から書くことは理論やデータに基づかない私の勝手な解釈の話です。話半分くらいで読んで、間違っていたら、ご指摘ください。
どこで読んだかもすっかり忘れてしまったのですが、いつだったかスマホや自動車、他の機械類の進化について語り合っている対談を読みました。
その話の中に、「これらはそれぞれ別の用途で使うものだが、進化していくと、結局本質的に目指すところが同じで、その進化の道筋も同じになる。みんな自動化、最後は機械が自分で判断するところを目指し、その過程で同じような問題が起こっている。概念を抽象化すると、本質的には同じということ」というような話でした。
すみません。
検索してみたのですが、その対談が見つけられません。
対談の内容も微妙に違うかもしれません・・・。
こんな曖昧な話で申し訳ないんですが、その時の私は「概念を抽象化すると、本質的には同じ」という言葉が深く深く刺さりました。
そして、みんな自動化を目指すというのもおもしろいと思いました。
ここから、私が思い出したのはキャリコン受験のために、カウンセリングの勉強していたときの気づきです。
カウンセリングは以下のようなことが言われます。
クライエント(来談者・相談者)中心
カウンセラーは支援者
答えはクライエントの中にある
能力の高いカウンセラーは短時間でクライエントの主訴(本当の悩み)にたどりつく
最後はクライエント自ら決める
これを聞いたとき、教師の仕事に似ていると感じました。
学習者中心
教師は支援者
勉強するのは学習者
能力の高い教師は短時間で学習効果を高めることができる
自律学習をめざす
カウンセリングと日本語を教えることは対人支援という分野で隣接していますが、本質的には同じなのだろうと思います。
しかも、機械も人も最終的にはオートノミーを目指している。機械と人を同列に語るなと怒られそうですが、地球上のあらゆるものが本質的には同じものを求めているってなんだかロマンを感じます(笑)。
バックキャスティングデザイン
キャリアコンサルタントの勉強では、キャリアプランニングについても学びました。
キャリアプラニングとは、「将来の夢」や「理想の自分」について考え、その目標を達成するために、何が必要か、何をするべきかを考え計画を立てることです。
そういえば、大谷翔平選手が使っていたことで一躍有名になった目標達成のためのマンダラチャート。あれも真ん中に目標を書いて、達成に必要なことを周りに書いていくというものです。
目標達成のための本はたくさん出版されていますが、たいてい「達成したい目標を具体的にする」、「目標に向かって必要なものを考える」と書かれています。
そして、いかに効率よくビジネスを成功させるかのような話題が書かれているビジネス本。
その秘訣も「完成形をまず描く」、「完成に必要なものを考え、段取りを考える」
これらは本質的には同じことではないでしょうか?
このような「完成形」「理想形」からそこに必要なものを考えていくことを、バックキャスティングデザインとか、逆算思考とか言うそうです。
隣接的なそれぞれの事象を抽象化していくと、本質的には同じというのが本当だとします。
言語学習は達成したい目標があり、そこに到達するための行為です。
ならば、まず完成形(目標)をイメージし、完成形を意識して、そこから必要なものを考えるという方向は正しいのではないでしょうか?
そんなことを思いながら、最適な教育効果を考えるインストラクショナルデザインに関する本を読むと、この考えが正しいと自信がわきます。(詳しくはIDの本をご参照ください。)
言語学習の完成形とは?
では、言語学習の「完成形」とは何でしょうか?
そして、みんなの日本語の各課の完成形って何でしょう?
各課2ページ目のモデル会話でしょうか?
なんか違う気がします。
みん日を長くやってきた私の感覚では、例えば第14課の完成形は「て形が正確に言えること」、「〜てくださいを使って文が作れること」だと思います。
しかし、目標がコミュニケーションであるという大前提は譲れないのであれば、「〜てくださいで文を作る」だけでは具体的とは言えません。
そうなると、みんなの日本語の「完成形」はもしかしたら、教師によって変わるのかもしれません。
文型が出発点の文型積み上げなので、この文型で何が言えるか?という話になります。教科書自体のゴールは文型そのものであって、コミュニケーションではないので、各教師がそれぞれにたどり着くところが違うことになります。
そして、「今日はて形を勉強」して、練習を続けているので、完成に近い形のロールプレイをするときも、「て形を使わなければいけない!」と思いながら、やることになります。
結局、「みんなの日本語」はその設計からして、バックキャスティングデザインではないことがわかります。
「できる日本語」はバックキャスティングデザイン
「できる日本語」はまず行動目標ありきの教科書です。
まず、行動目標があり、完成形としてのモデル会話があり、その会話の中で使われている文型や語彙を練習する教科書です。
そこには「ああ、この会話ではこういう言い方をすればいいのか!」いう気づきもあります。
理論的にも証明されていますが、外国語をある程度勉強したことがある方なら、この気づきの大切さは実感があるのではないでしょうか。
気づきを元に練習する。
定着は目指さなくてもいい。
なぜなら、スパイラルで同じことが何回も出てくるから。
文型積み上げの教科書とはコンセプトが全然違うのです。
全く別のデザインの本です。
「まるごと」など多くの新しい教科書にはcan-do設定されていますが、それぞれの完成形こそがcan-doだと思います。
そうは言っても似ているじゃないか!?
…という方が大勢いることもわかります。
コンセプトが違ったとしても、同じ日本語。
基礎語は同じですし、単文から始めるところも同じです。
「できる日本語」のコンセプトを理解しないで授業をすると、オーディオリンガル的な授業になってしまうこともあると思います。
そう言う私もみん日的に「大切な」「重い」文型があると、ついつい形の定着を目指したくなります。
それほど、文型積み上げの後遺症は消えないのです。
次回のnoteではそのあたりをまとめてみたいと思います。
まとめ
できる日本語とみんなの日本語はそのデザインからして別の教科書です。
文型の並びが似ていたとしても、みん日は文型積み上げ、パーツを集めてから、さて何ができるか?と考える本です。
「できる日本語」はバックキャスティング。逆算思考。
今、文型積み上げの本で教えている先生は、私みたいにご自分の「言語教育観」が文型第一主義に陥らないように気をつけてくださいね。