なぁ、死って美しいんか?
ここ数日のタイムラインは、皆が知るように、荒れていた。岸田総理へのパイプ爆弾投擲未遂に、女子高校生二名による自殺配信。この二つが主だった議論の中心だろう。
女子高校生二名による自殺配信が、私にはひどく心に刺さった。詳細や犯人を誹謗中傷する様な事を言ってもしょうがないので、私なりに思った事だけを述べようと思う。
私が見たのは本当に最期の1分程度の飛び降りる瞬間の所だけだった。流れてきたから、つい見てしまった。向かって左側の女の子が、か細い声で「い、行くよ」と言う。何とも悲劇的な光景だった。二人が画面から消えてから暫くしてバーンという地面に人が叩きつけられる音が響いた。
二人で手を繋いでいた(違うかもしれない。)彼女らを、その美しさと切なさ故に「美しい」や「尊い」と言う人もいた。勿論、「愚かだ」と批判する人もいたし、「ショッキングだった」と何ともリアルな映像に閉口した人もいた。
私はと言うと、彼女らにまず声援を送りたいという気持ちが湧いた。これは必ずしも自死を奨励する訳ではないし、自死という選択は可能ならば避けなければならないという前提を基に言う。よく頑張ったなと。私も幾度か自殺未遂をしたから、自死の困難さと恐怖がよく分かる。実際、彼女達も死を恐れているように私の目には映った。美しい儘に死ねるというのも、私は少し否定的であるが、彼女らがそういう信条があるならば、それはそれとしてこの結末は悪いものではないようにも思える。
しかし、私はやはりどんな絶望が待ち受けていても、可能な限りは生を諦めるべきではないと思う。彼女らにこう説教しても無駄だから、彼女らを責めるのはこの辺にしておくが、自死に追いやった男は責任を感じるべきである。男はあの動画を見たとしたら、ひどい罪悪感に襲われるに違いない。彼女らが自殺した大義名分の一つが、それに違いないのは確かな事である。ある意味では、自殺配信は成功である。男には社会的制裁が下り、サイコパスで無ければ自責の念は一生纏わり付くだろう。人を死に追いやる事も、また困難と恐怖だ。とは言いつつも、これが彼女らの望んだ結末であったとしても、死は必ずしも言い訳ではないと私は繰り返し言いたい。この男が、その反省をもっと前にしていれば良かっただけなのだから。
さて、ここで私はふと思ったのが、「死は救済」だとか「死は美しい」と無批判且つ無限定に宣う人々についてだ。本当に死は美しいのか?
古来より「腹切り」だとか「イエスの十字架」だとか、死を聖なる儀式の過程として描く事は屡々だ。特攻も、昭和の文学カブレの少年少女の飛び降りも、そして今のメンヘラ少年少女のODも、何故死を美として語るのか。私には少し今回の件で疑問に思った。彼女らが死を恐れている様は、どこも美しくなかった。
思うに、死というのが美しいのは、それが相当たる覚悟や運命への反逆故である。今回のは、相当たる覚悟があったか?
彼女らは死を選択したのでは無く、死を選択せざるを得なかった。誰かに落とされ、殺された。勿論、彼女らを追い詰めたのは件の男である。また同様に彼女らが信奉していたと言うメンヘラ音楽や文化でもある。退廃は、選ぶ人に取っては凶器になる。首を絞めつける。メンヘラ○○の様な、ある種の退廃芸術を私は否定しない。しかし、その退廃は使いようによっては危険だと言うことを、誰かポップカルチャーになる前に説明すべきだったのだろう。
最後になるが、亡くなった彼女らに心からご冥福をお祈り申し上げる。