見出し画像

(続)地元に聖地が欲しかったヤツに与えられた、「がんばっていきまっしょい」という映画。【感想編】


前回までの記事

前回の記事も例に漏れず深夜公開となってしまって申し訳ない。
今回はタイトル通り「地元に聖地が欲しかったヤツに与えられた、「がんばっていきまっしょい」という映画。」の続きである。前回までの記事をすべて読んでいる前提で話を進める。
よろしければ、最初の記事から順を追って、この記事を読んでいただきたい。

通常であれば3時間程度で記事を書くが、今回はなかなか整理ができず大幅に時間を要してしまった。(約10時間)
自分の内にある気持ちの複雑さを、うまく表現できず苦労した。その影響で、いつもよりさらに散らかった文章になり7000字を超えている。ご容赦願いたい。
純粋に感想だけを読みたい方は、「作品そのものに対する感想」という項目から読んでいただきたい。


聖地を知る手段が無くなる

がんばっていきまっしょいの応援として記事を書く、という企画を始めて一週間近くなる。
元々は「がんばっていきまっしょい」の感想を記録(文章)に残すことで、作品を広めよう」という提案から始まったものだった。それが一人脱線して、聖地巡礼への熱い語りから始まり、「がんばっていきまっしょい」についての雑多な記事を世に放ち続けた。
そんなことをしているうちに。
いよいよ「がんばっていきまっしょい」の公開が終了する地域がでてくるという。聖地巡礼まで興味を持ってもらう前に、鑑賞する環境が無くなってしまう。聖地を知る手段が無くなってしまえば、巡礼どころではない。入り口が閉じられようとしている。

入り口が完全に閉じられる前に。

地元に聖地が欲しかったヤツにとって、この映画がどのようなものか知ってもらい、最後の最後、劇場に足を向ける興味を起こしてもらうために記事を書いていく。


世界一参考にならない感想

がんばっていきまっしょいには、自分の視点からは補正がかかっている。かかりすぎている。
よく、作品の解像度を高める作業として、聖地巡礼が用いられる。登場人物と同じ場所で同じ行動をすることでその世界に入り込もうとするのだ。

「愛媛県松山市三津地区において、部活(ボート)という日常を通じて成長する(女子)学生たちの青春物語」
女子ではないが、この共通点は、自分の人生の大半が当てはまる。
だから、悦ネエという鏡を覗いていると、彼女の描写すべてに過去の自分の影がちらつく。
自分が三津で生きてきた時間を、神の視点でずっと見ている感覚。さらに、彼女の気持ちに大きく共感しようとし、行動にも理解者であろうとする。否定するのは自己の否定につながるかもしれないという感覚。
この映画に対して、自分の視点は解像度が高すぎる。
だから世界で一番参考にならない感想だ。

三津の渡しの夕景

先行上映での直感

先行上映で多くの人に広がる、と確信したのは他でもない映像の美しさだった。アニメ的に誇張された背景。それでも記憶と不思議と一致する。紫色の空なんてほとんど見たこともないのに。

聖地巡礼の重要な要素に再現性がある。
その画面に入り込むような感覚。見たこと無い景色なのに、なぜか見覚えがある。その感覚は通常であれば、アニメの背景と実際の景色を見比べて、再現性を確認する時に起こる。

自分が「がんばっていきまっしょい」を観たとき、通常と逆の現象が起こった。悦ネエたちのいる背景に見覚えがあることによって、違和感なく劇中の世界に入り込んでしまった。
だから、物語で多少不自然な所があっても、そういうものだと勝手に思い込んで気付かなかった。物語中にちりばめられた「空白」も気にならなかった。普段の日常生活で、理不尽が起きてもそういうものだと受け入れたり、過去の記憶が抜け落ちても気にならないように。

直感的にいい映画だと思ったのは、劇中で起きたあらゆる出来事を自然に受け入れてしまったからだ。

自分の日常が背景になったことで、物語に入り込めた。が、あらゆる違和感に気がつかなかった。
(三津の漁港)

地元を聖地に選んだ=称賛するべき作品という構図

「がんばっていきまっしょい」は広く知られるべき作品である。と断言しつつ、自分は詳細にその理由を語っていない。
「見れば分かる」という考えが根底にあった。愛媛での先行上映後、ポジティブな感想しか目に入らなかった為だ。作品や声優に興味がある人だけが集まっているので当然である。
その周囲の反応に、自分の得た直感が合わさり、「自分が作品についてアレコレ語る必要がない。見ればよい作品と分かるのだから」と考えてしまっていた。
その結果、物語や人物描写の評価そっちのけで、「自分の好きな三津が聖地になってほしい=三津を聖地として採用した作品は良い作品である=がんばっていきまっしょいは良い作品である」という図式が誕生した。

実際「がんばっていきまっしょい」を応援しようと思ったのは、予告編のPVで三津の描写があったからである。地元愛がそのまま作品愛となっているので、MAPを作って忠実な点を抜き出す作業こそ、自分の中で「がんばっていきまっしょいの感想を語る」行為になっていた。
まったく作品に興味がない人には、この感想の伝え方は効果が弱かった。アニメ作品にとって背景の忠実さは、鑑賞を決意させる重要な要素ではないからだ。

「背景の出来がいい!」というが、肝心の作品の中身を語っていない。

自分の中で不満を持つことを許していなかった

「地元愛=作品愛という構図」「悦ネエという鏡に映った、過去の自分の姿」この作品に自分が持つ要素が、作品に対する批評を拒んでいた。
「作品」に対する批判があれば、物語に入り込みすぎた自分にとって「地元の批判」や、「物語の存在」自体に対する批判と取れてしまう。
他人がこの作品に対してどんな感想を持つのも自由である。が、自分の中で作品を詳細に分解し、不満点を挙げること自体を許せないでいた。
その思考を溶かしたのが、「世間の作品に対する冷静な評価と感想」である。

「万人受けする作品ではない」

今回の映画に対する評価や感想は多く拾ってきた。良い感想を持ってくれた人には、反応を送ることでその評価を肯定し、作品を広めようとする機運を高めようと試みていた。
その過程では多くの批判にも遭遇した。少数派の意見だと考えていたが、結果は数字となって現れる。そこでやっと作品のストーリーや演出に対して、自分の中で批評を行う冷静さが現れた。
「3Dアニメーションの使用の是非」「楽曲」「演出」「ストーリー」に対して、他人が抱いた違和感。実は自分も少なからず思うところはあって、少数ながらポストに投稿していた。盲目的に作品を推していた自分にとっては些細な事、と流していた部分が、他人にとっては大きな違和感であり、不満であることに気づいたのは二回目の鑑賞後である。

他人の感想に触れることで気づく自分の視点の違い

「がんばっていきまっしょい」は観れば観るほど詳細な演出に気づく、そういった作りに意図的にされている。
先行上映で自分は「背景」を見ていた。実は映画のストーリー自体は文庫版である程度把握しており、大体同じような展開で進んだため、見るべき点は無いだろうと勝手に決めつけていた。意図したものではなかったが、その分背景に注目して鑑賞できてしまったのだ。これが良くなかった。

例えばキャラの表情。ヒメひとり取っても、リーが悦ネエをぶった時の表情や、花火大会で悦ネエに対する違和感に気づいたときの表情。この作品ではそういった「語られない部分」から情報が読み取ることができる。
ここに注目できなければ「王道のストーリーでよかったよね」という薄い感想しか持てない。先行上映後の自分がそうだった。

作品の感想会をした時、自分の中で明らかに他者との感想を語る部分が違う事に気づいた。ほかの人は「ストーリー」「演出」「キャラクター」を中心に語るのに対して、自分は「聖地松山についてどう思うか」という質問を投げかけた。非常に答えづらい質問だっただろう。「背景や舞台装置」にまで詳細な感想を持てる人は少ない。繰り返すが、気にする人でなければ重要な要素ではないから。
そこでようやく遅れて、自分が作品全体の感想を持てていないことに気づいた。

地元が聖地になったから盲目的に応援したのか

自分はずっと地元に聖地が欲しかった。「がんばっていきまっしょい」はその夢を叶えてくれた。だから、今まで盲目的になって応援していたのか?というとそうではない。
聖地巡礼を好むからからこそ、過去に自治体のバックアップもありながら、まったく成功しなかった作品も知っている。本編中のストーリーや演出に問題があると炎上して、自治体ごと燃えてしまうパターンもあった。

「がんばっていきまっしょい」は演出やストーリーに大きな問題はない。これは原作者の敷村先生による意向が完全に良い方向に働いた結果だ。「性的描写やギャンブル等を避ける」というものだが、おかげでどの世代にも届くようになっている。過度に媚びた演出もない。

だから全く盲目的に応援していた訳ではないだろう。地元を聖地として世に羽ばたいた、まっすぐな物語だったからこそだ。
これがとても下品な作品だったら「俺の地元を下品な作品で汚しやがって!許せんわ!こんな映画は観んでええけん!!」と先行上映後に怒り狂ったことだろう。
そうはならなかった。「この作品は他人に推せる。自分が愛している」と自信をもって言える作品だったから、ここまで熱中できた。
松山市民として、三津の住民としていられることを誇りに思えるくらいに。

伊予鉄三津駅にある看板。自分はこのキャッチコピーをとても気に入っている。彼女たちが青春を駆け抜けた景色=自分が青春を駆け抜けた景色だからだ。

がんばっていきまっしょいがくれたもの

自分はこのがんばっていきまっしょいを「与えられたもの」と表現した。それは地元に聖地が欲しいヤツに対しての、天からの贈り物に思えたから。

「こんな片田舎の三津がアニメの聖地になるなんてありえない」とずっと思っていた。どこからも注目されず、ひっそりと忘れていかれる土地だと思っていた。そんな土地に再び「注目」を集めてくれた。

使命感を与えてくれた。この作品を広げないといけない、地図を作って知ってもらわないといけない、という使命感。無関係な一般人には十分すぎるくらい。
つながりをくれた。SNS上での交流から始まり、実際の店舗を訪ねたり、そのまま常連として居ついたり。そういった機会をくれた。
そういえば赤煉瓦に通う前の週末は何をしていただろうか。映画が始まってから私生活まで変わってしまった。
心を動かしてくれた。原作やその続編、映画本編を含めて本当に感動することが多かった。作品に感情を揺さぶられると、悦ネエたちに過去の自分を重ね合わせ、自分の中の感動は余計に大きくなる。

祭りはまだ続く

長々と書いたが、本当にこの作品が世に送り出されてよかったと思っている。
上映期間中は、映画に対して「地元のチームが全国大会で苦戦を強いられている」のを応援しているような感覚だった。その中には見知った顔の子もいるので、とても贔屓しながら応援しているような感じだ。
結果は振るわず、実力も発揮しきれていないが、まだ試合は終わっていない。諦めるなと声をかけ続ける。終わったらお疲れ様と言いたい。いつでも三津に帰ってきてほしい。

一方、自分の方は祭りのような忙しさに似ていた。全国公開が始まるまでにマップを整備しきる。準備が終わったら案内を流し続ける。本編の上映は花火大会のようなもので、今3週目の打ち上げが始まった。終わりが見えると寂しさが出てくるものである。
それでも、まだやることがあるから現場にもどろう。
いつ誰が、松山を、三津を「聖地巡礼したい」と思うか分からないから。 

(追記…本文中松山と三津という地名を併用して使っています。これは私が三津の一帯を示すのに、松山市だと広すぎると判断しているからです。ちょうど三津という表現は、渡舟や三津駅、商店街、花火大会の会場周辺を指すことができます。三津はさらに三津浜と宮前という小学校区分で分けられます。また、梅津寺は高浜地区にあたります。自分が好きなのは瀬戸内の島々の多島美と、それを背景とした三津なのです。)


梅津寺の踏切

作品そのものに対する感想

さてここからは作品の内容の感想を書いていきたい。
どこに差し込むか迷ったが、一番最後に書くことにした。「聖地が好き=作品が好き」が成り立った状態の途中では感想が描けなかったのだ。

この項目から読む人のために再度お知らせするが、自分の感想は地元民ゆえの解像度の高さから、「世界一参考にならない感想」である。ご了承願いたい。

3Dアニメーション使用の是非

他人の感想の中で一番言及されていた内容である。実は自分も一番最初の、悦ネエが目を開ける瞬間が若干苦手だ。理由は分からないが少し「うっ」となってしまう。不気味の谷という奴だろうか。
しかし、ここを乗り越えると、あとは気にならないというか、瞳が美しくさえ感じる。
手書きに比べてCGというのは、まだまだ未熟な分野である。この作品ではカメラワークや、水の表現を生かすためあえてCGが使われている。この点は非常によくできている。かつて「蒼き鋼のアルペジオ」というアニメが同じようにフルCGで制作された。そのころから比べると非常に滑らかになったと思う。
結果、物語がダイナミックに楽しめた要因の一つだったと思う。アニメの作成手法としてCGがメインになった時に、制作の手本の一つとして話題に上がるような作品になるかもしれない。

キャラクター

自分のお気に入りはダッコである。イモッチとセットで輝くところがあるので二人とも推したいところだが、それを言うと全員になってしまう。
劇中ではダッコの家は改革派、イモッチの家は保守派という発言がある。
しかし、二人だけの関係でみると、先に変わってしまったのはイモッチの方である。
イモッチからすれば、昔のままのダッコとのやり取りは、本当はガサツな自分を見せられ落着くものなのだろう。地元に帰った時に、昔の旧友と遊ぶような感覚。ダッコにはそういった安心感がある。個人的にはただのギャグ要因としておくにはもったいない。彼女はイモッチの精神安定剤なのである。

ストーリー

よく「この話はほんとに松山市が舞台である必要があるの?」というのも見かける。
松山市でないといけない。そもそも原作の舞台が松山なのだから、そのタイトルを受け継ぐ以上当然なのである。
街中に高校があり、そこから電車で海に通い、そこでボート部として活動する。架空の都市を作れば簡単なのだが、実際にそれが可能な街がある。そこがこの作品をファンタジーにしない、リアルな日常として見る側が受け止められる要因である。
そのうえで、等身大のストーリーが展開されていく。最後を優勝にして感動のエピソードにすることも可能だった。が、それだと悦ネエが最後に語った「それなりに」の重さが無くなってしまう。「私でも優勝できるのだから、ボートってそれなりの競技じゃない?」となってしまう。

作中うまくいかないこと、理不尽な事の描写も、最後のこのセリフに重みを持たせるためのストーリーだ。見た人みんなが競技やコンテストで一番の成績を出せたわけではないし、その途中で挫折もあっただろう。悦ネエという鏡に映し出されるそれぞれの答えを大事にしてほしい。

演出

演出については、以前の記事をそのまま引用する。
演出の空白について書いた記事である。

「ボートやる意味あった?」という問いに対して、悦ネエが明確な答えを出していない、という内容をポストした。
これについてもう少し掘り下げていきたい。

まず、この映画の感想は様々だが、「描写がぼかされている、足りない」という声と「悦ネエの性格や行動に共感できない」というものをピックアップしたい。
自分の中では、この二つどちらか一つでも当てはまると、「がんばっていきまっしょい」が楽しめなくなる原因だと考えている。

あえて描写に「空白」がある、のは良い点、悪い点両方で言われている。
最後のヒメとの会話だけでなく、二宮への気持ち、悦ネエが部員に送ったメッセージなどぼかされた箇所は多い。

ここで「悦ネエが観た人を映す鏡」というのが生きてくる。
「あなたにとってこの部活をやる意味はあったか?」
「あなたは学生時代、淡い恋心をしっかり伝えることができたか?」
「あなたなら心配をかけた部員たちにどうメッセージを送る?」
という問いかけをされているのではないかと思う。
この回答は個人の人生経験で分かれるはずだし、想像する内容も人によって違う。
悦ネエの気持ちに、今までの人生で近づいた事がある人ほど、悦ネエと自分が重なり、成長していく姿に感動し、良い作品だったと思えるのである。

大人になりきってしまった人には「悦ネエは情緒不安定すぎる」ように映って終わりなのである。かつての自分と重ね合わせられず、共感を得られない。すべての「空白」が不十分な描写に見え、中途半端な物語で終わる。

観た人それぞれが独自の感想を持つことで、作品に奥行きができている。
万人受けはしないだろうが、それでも刺さる人には刺さっている。

「がんばっていきまっしょい」に使われた「伊予の酒造り唄」という、地元の人間も知らない民謡。/ 悦ネエは観た人を映す鏡

楽曲

「伊予の酒造り唄」の記事を読んでいただいた方なら、音楽のこだわりの一端を垣間見れたのではないかと思う。
OPの「空色のみずしぶき」は本編に寄せて作られており、歌詞を聞いているだけで本編が走馬灯のように思い出される。再度上映を見に行った際、冒頭でこの楽曲が流れると「また彼女達の人生を追うことができる!」という喜びがやってくる。

最後まで記事を読んでいただきありがとうございました。
この記事が一体どのくらいの影響力を持ち、劇場や聖地に人を呼べるかは未知数です。それでも、「がんばっていきまっしょい」を見ることや、聖地を回ることに対して何かヒントがあればいいな、と思っています。

お疲れさまでした。

いいなと思ったら応援しよう!