「がんばっていきまっしょい」に使われた「伊予の酒造り唄」という、地元の人間も知らない民謡。/ 悦ネエは観た人を映す鏡
前回の記事
前回は「「がんばっていきまっしょいコラボメニュー」で衝撃を受けすぎて、大きな勘違いをしたヤツ。」という内容を投稿した。ちらほら反応があって面白かった。
よく創作家が「感想をくれ!」と呼び掛けているが、今さらその気持ちが良くわかった。その創作物のどこが評価され、伸びているのかを把握したいのである。
聖地巡礼への熱意から、情報を出そうと記事を書き始めたが、特に今回の内容は聖地巡礼に役に立たないと思う。
今日は「聖地に長く住みながら地元の唄を知らなかったよ!がんばっていきまっしょいの輪で新しい文化を知ることができたよ!!」という内容である。興味があればぜひ読んでいただきたい。
「ハ、ヨイトナーレ!」
既に本編を鑑賞された方なら脳内再生が可能であろう、このセリフ。劇中で流れる「伊予の酒造(さけつく)り唄」である。渋ジイが運転する車内は、このセリフで一気に華やかになる。
適当な演歌を流しても気に留められなさそうな場面に、この民謡を採用したのは監督のこだわりか。単に、舞台が松山である事を補強する演出で採用されただけでは無いように思う。
酒造り唄は全国各地にあるが・・・
どうも酒造り唄は全国にあるらしい。その発祥や歴史はWikiに任せるが、愛媛県に関しては記述がない。歌唱の様子の動画は出てくるが、やはりメジャーな民謡では無さそうだ。
しかも酒造り唄は酒造りが盛んな地域のものだから、三津近辺では知名度が低いはずだ。どこからたどり着いたんだ監督。
ちなみに伊予(いよ)は愛媛県の昔の呼び方である。「いーよ、悦ネエ♪」は全く関係ない。
地元民、その道のプロに教わる
Xでのポストを閲覧中に、伊予の酒造り唄の三味線を担当したという髙宮絲觀(たかみや しかん)さんのポストを発見した。【ご本人X】
この時、こんな唄あったんだ的な引用ポストをしたのだが、自分が投稿した歌詞は「伊予節」の歌詞だと思われる。
というのも検索して出てくる「伊予の酒造り唄」の歌詞と、実際歌唱されている動画の歌詞が違う。さらに様々な民謡が入り交じり、検索で「伊予の酒造り唄」の歌詞として「伊予節」が引用されていた可能性がある。
何にせよ間違いは間違いだが、ご本人に優しく「伊予節」の存在を教えていただいた。その時気付いていたら、恥ずかしさで顔面が燃え上がっていただろう。
がんばっていきまっしょいは文化も教えてくれる?
移動中の何気ないシーンで採用された民謡だが、リーやみんなの合唱で観覧者の心を鷲掴みにした。「空色の水しぶき♪」くらいみんなが歌えるはずだ。遠く離れた地域の民謡の一部を。
この記事を読んでいる人は興味本位で読み進めていただろうが、「酒造りの唄は全国各地にある」ということや、「伊予節という民謡がある」ということや「髙宮さんが三味線を担当していた」という知識を得ている。
この内容だけでそこら辺の聖地地元民よりも博識である。おそらく映画を見なければ、得ることのない知識だっただろう。がんばっていきまっしょいは文化も教えてくれる映画なのか。
一度の鑑賞では監督のこだわりに気づけない
「がんばっていきまっしょい」は何度も見なければ、そのこだわりに気づくことができない。この点一撃でこだわりを見せつけてきたコラボスイーツとは違う。(そもそも比べる対象ではないが)
遠くで聞こえる踏切の音、クラスの生徒のガヤ、花火の音響。監督は音にもこだわりを持っているから、この「伊予の酒造り唄」にもこだわりがあるはずだ。
残念ながら、公開終了の予告のある劇場が増えてきたという。聖地に一番近い松山の映画館では、まだ1日3回の公開があるので地元人気の高さが感じられる。
音響は映画館で輝く要素なので、映画館でこそ楽しんでいただきたい。
耳を澄ませて映画の音を楽しんだ後は、実際に聖地で楽しむのも聖地巡礼の醍醐味だ。
ちなみに
三津での伝統文化といえば「三津の虎舞(とらまい)」であろうか。
伊予のお殿様の、異国での虎狩の様子を伝える舞と教えられた。
「よめたりや、よめたりや。さては異国の虎狩なるか・・・」で始まる語り。保育園や小学校で相当に練習させられた記憶がある。地元民に「カイカイツクツーカイツクツー」と話しかけて「虎舞かw」という人がいたら経験者の可能性がある。
三津の秋祭りで見ることができるほか、動画もある。
今日はここまで
最終的に聖地巡礼とは程遠い内容になってしまったが容赦願いたい。
悦ネエやヒメは三津の人間だから、虎舞は当然知っているだろう。そこら辺を知ると解像度があが・・・らないか。
映画そのものとは全く関係ない話だが、せっかく三津や松山の名前を知ってもらえたのである。これも「がんばっていきまっしょいの輪」ということで。
お疲れ様でした。
「悦ネエは観た人を映す鏡」
「ボートやる意味あった?」という問いに対して、悦ネエが明確な答えを出していない、という内容をポストした。
これについてもう少し掘り下げていきたい。
まず、この映画の感想は様々だが、「描写がぼかされている、足りない」という声と「悦ネエの性格や行動に共感できない」というものをピックアップしたい。
自分の中では、この二つどちらか一つでも当てはまると、「がんばっていきまっしょい」が楽しめなくなる原因だと考えている。
あえて描写に「空白」がある、のは良い点、悪い点両方で言われている。
最後のヒメとの会話だけでなく、二宮への気持ち、悦ネエが部員に送ったメッセージなどぼかされた箇所は多い。
ここで「悦ネエが観た人を映す鏡」というのが生きてくる。
「あなたにとってこの部活をやる意味はあったか?」
「あなたは学生時代、淡い恋心をしっかり伝えることができたか?」
「あなたなら心配をかけた部員たちにどうメッセージを送る?」
という問いかけをされているのではないかと思う。
この回答は個人の人生経験で分かれるはずだし、想像する内容も人によって違う。
悦ネエの気持ちに、今までの人生で近づいた事がある人ほど、悦ネエと自分が重なり、成長していく姿に感動し、良い作品だったと思えるのである。
大人になりきってしまった人には「悦ネエは情緒不安定すぎる」ように映って終わりなのである。かつての自分と重ね合わせられず、共感を得られない。すべての「空白」が不十分な描写に見え、中途半端な物語で終わる。
観た人それぞれが独自の感想を持つことで、作品に奥行きができている。
万人受けはしないだろうが、それでも刺さる人には刺さっている。
彼女たちが青春を過ごした街で、「どのような未来を迎えたか」と海を眺めながらゆっくりと考えるのも聖地巡礼の楽しみ方である。