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悦ネエの答えを知り、再認識したがんばっていきまっしょいの良さ。

前回の記事

前回…というか、昨日4回目の鑑賞を終え、その感想や気付きを記事にした。観れば観るほど…という説明はもう不要だろう。

ポツポツと反応があるなぁ、とTLを眺めていたら、がんばっていきまっしょいの批判ポストにもこの日はなぜかよく出会う。

基本無視するのだが、一部公開終了もあり意見しやすいのだろう。興行だし、数字がすべて。それは理解している。CGだのストーリーだの合わないところは、他人が強制して受け入れされることはできない。だけど、少し憂鬱な気分になっていた。

さらに追い打ちをかけたのは、「大洗あんこう祭り」の様子であった。
声優やファンが集い、聖地は大盛り上がり。それを見てしまった。
「同じ聖地なのに、大きく差が開いたな…しかし向こうは年数が違う。環境も違う。関わる人も多くいて熱意が違う。ウチはまだ終わってないし…」

どんなに強がっても正直なところ…羨ましい。
叩きつけられる差。がんばっていきまっしょいが数字をあげれば、三津にも声優や人が沢山集まる未来があったかもしれない。
はっきり言うと、そうはならなかった。

ここで完全に気分が落ちてしまったために、がんばっていきまっしょいの動画を観ることにした。

最近、昔の実写映画のワンシーンを見たからか、動画サイトからよく勧められる。舞台は1970年代なのに、なぜか小さい頃の景色を思い出して懐かしい気持ちになる。この空気感に惚れた人がいるのも納得だ。
古くからの建物と新しい建物が入り乱れる、三津で育ったからだろうか。
そうして進めていくと出会ったアニメ映画版の広告動画…。

彼女たちの青春の記憶がよみがえる

この動画は映画公開前の3月のものである。
ゆったりとした、しかし力強い音楽。1ページ1ページ描かれる彼女達の青春。悦ネエの語りや決意とともに漕がれるボート。

「必死になって努力して、みんなでがんばろうなんて意味のないことだと、そう思っていた」
「この時間が永遠じゃないなら、心が震えるようなこの一瞬を、私たちは諦めたくない!」

この言葉は間違いなく、終盤の成長した悦ネエの言葉だと思える。しかも本編には全く登場しない音声である。
劇場での90分を知っていれば、たった30秒のこの動画で胸が熱くなる。走馬灯のように彼女達の青春の記憶がよみがえる感覚。

これだよ。これが本当のがんばっていきまっしょいの魅力じゃないか。

CGがどうとか、数字がどうこうではない。美しい風景や楽曲に、青春を駆け抜ける彼女達の姿の追体験。自分がもう味わう事が出来ないからこそ、より尊い作品だと感じるのだ。

「ボートやる意味あった?」に対する答え

悦ネエは冷めていながらも、心の奥に熱いものを秘めているという。
結局、その「熱いもの」とは何か、というのが「諦めたくない」という感情だったのだ。
元々何事にも無気力だった悦ネエ。しかし、そのきっかけのリレーに立候補したのは「特別であることを諦めたくない」という気持ちがあってだろう。
悦ネエは「ひねくれて熱くなりきれない性格」だと原作者は言う。
だが、上記の動画の悦ネエの語りは、それを清々しいほどに置き去りにして成長している。

なぜボートをやるのか?
それは「仲間・努力・時間・達成感・勝利」すべてを諦めたくなかった、ということ。

文庫版の悦ネエの心情描写には「全部欲しくて欲しくて、だからみんなと一緒に走り抜けた」とある。貪欲なまでに素直な彼女たちの思いが、諦めの悪さが、心に響くのだ。

悦ネエが自分の鏡であるときは、光を増して反射する鏡だった。
光が増して見えるのは、悦ネエの貪欲さを上乗せして見せてくれるからである。そうすると自分の思い出も輝いて見える。
映画の冒頭で感極まりそうになるのは、この輝きをもう一度追いかけられることへの感動なのだ。

だからが「がんばっていきまっしょい」が好きなんだ

「青春の」とか「全力で」という単語は、そろそろ自分の手の届かない所に差し掛かりつつある。
「青春」という時間は戻ってこないし、今は毎日明日のことばかり考えて、毎日、いや大会本番ですら「全力で」やりきることができなくなってしまった。
確かに彼女たちのような「明日のことを考えず、何かを全力でやっていた時期」というのは自分にもあったはずなのだ。

その瞬間を、「がんばっていきまっしょい」は自分が育った三津を背景に見せてくれる。もう取り戻せない青春を、勝つことに諦めの悪い自分を、もう一度追体験させてくれるかのような時間をくれる。だから「がんばっていきまっしょい」が魅力的で好きなのだ。

他の人にはもう少し違った見え方をしているに違いない。だが、その人にも一瞬でも、海の輝きのようなまぶしい時間があったはずだ。
悦ネエたちの物語に共感して、こういった記事に集まってくれている人たちは、青春の記憶がよみがえる感覚に魅了されてしまった人たちではなかろうか。

聖地を緩やかに盛り上げていきたい

毎日記事を書くのが使命となり、イージーオールするタイミングを完全に失っている。しかし、昨日は本当に沈んだままだと、そのまま浮かんで戻ってこなかった可能性もある。

がんばっていきまっしょいが多くの人に見られなかったことで、良かった点があるという。
それは極端なオーバーツーリズムが発生していないことだ。これは数名が指摘していた。
忠実な背景は本作の自慢だが、それによって聖地巡礼者であふれていたら?
赤煉瓦やソフトタイム、ブエナビスタはそこまで大きくない。もし、大挙して大勢のファンが押し寄せていたら?

赤煉瓦は老夫婦が営業する小さなお店なので、当然対応に苦しむだろう。今ある自分がのんびりと過ごせる時間は失われていたかもしれない。

ソフトタイムも同じだ。地元の人が使えなくなって、店には入れないし、あの小さな敷地周辺は路上駐車だらけだったかもしれない。

ブエナビスタはただでさえ週末は混んでいるのに、人が押し寄せると、梅津寺のあのロケーションを見ながらの食事も台無しだったかもしれない。手に入らなかったものもあれば、失わなかったものもある。

そういえば最近は、三津の渡し船が観光客の往復でせわしく動いている。
失礼なのは承知で、これは正直、三津らしくないと思っている。
船頭が暇そうにあくびをして、たまに乗る人がいればポンポンと音を立てて船を走らせる。そんな優雅で贅沢な時間が少なくなってしまった。
良いことか悪いことかで言えば、本来は良いことなのだが・・・。

そんな風に三津全体がなってしまわないように、緩やかに盛り上げていけたら良いと思っている。
もちろん、三津に声優5人が来ることを諦めたわけではない。来ることがあれば、「再現動画の撮影でもして欲しいな~あはは~!」とか考えている。もちろん、雨宮さんと高橋さんは赤煉瓦の奥様のところへも行ってもらう。
・・・そんな未来もあったかもな、と今日も地道に情報発信をするのである。

今日の記事はここまで

今回紹介した動画は公開前のものだが、今のタイミングで観て本当に良かったと思っている。
様々なカットと音楽に乗せられて放たれる言葉は、予告としてみればありきたりなものだろう。しかし、それが本編でぼやかされていたものの、一つの答えであることは観てからでないと気づけなかった。
悦ネエを鏡として見られなかった人(示唆的な表現が苦手な人)は、特にこの動画を見て、しっかりとした答えを得られて納得できるかもしれない。

特に面白い記事ではなかったが、冒頭の動画だけでも紹介したかった。
がんばっていきまっしょいの実写映画を意識したような演出で、青春の空気感を味わって、熱くなって欲しかった。

お疲れさまでした。

少しポストにも書いたが、大体こういった記事を「いいね」してくれるのはほぼ既存のしょい民で、メンバーが固定されてきている。拡散の限界が来た、という事だろう。
ただ、しょいの輪を広げられる可能性はまだまだあって、こういった記事に「いいね」を付けた人を分かるようにして、相互フォローの推進をしたいのだが、Xの仕様上難しいのである。
「RT」した人、でもいいのだが、「RT」は「この記事広めたいと思ったときに使って」とアナウンスしてあるので、それもよくないと思った。

何かいい案があれば提案をお願いしたい。
この輪が広がれば、3月の「がんばっていきまっしょい」オフ会も、もう少し盛り上げたりできるかもしれないと思っている。

また、当日はまだオーナーと使用について話していないが、会場をベースキャンプ的な使い方ができないかと模索している。ただそれだと大がかりな準備になるから、作業ヘルプが必要だったりするので思い付きだけなのだが。

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