『くらしのアナキズム』①
「どんな思想も「イズム主義」が目的化すると、プロセスが犠牲にされ、正しさを競いあうゲームになる。でも、人生はプロセスそのものだ。誰も正しさのために生活しているわけではない。」 『くらしのアナキズム』松村圭一郎 P13 ミシマ社
「論破」がちらほら目につく。『竜馬がゆく』でも竜馬が相手を論破しないことを心がけていた。と司馬遼太郎が書いていた。確か、陸奥宗光が亀山社中で仲間から好かれていない場面だったか、清川八郎と話していてか(巧言令色すくなし仁)要は、相手が根にもつから。自分はその場では勝ち誇ってスッキリするかもしれない。(気持ちはわかる)勝った負けた、正しい、間違ってる。そういう安っぽい二元論を大人になっても続けるというのは、幼稚だろう。幼稚園児というか、発達段階で「幼児」の段階では勧善懲悪的な単純な「視点」になりがちなのは自分の幼少期なり、身近な子供を見ているとわかるはずだろう。大人は二元論に収まらない複雑な現実になのとか着地点を見出すものなんだろう。だとしたら、今の風潮は一億総幼稚化というところか?
「落とし所」「折り合いをつける」という「はっきりしない」ことを昨今の風潮は良しとしない。0か1か、コンピュータのように白黒つけたがる。言い換えれば「認知負荷」を徹底的に下げたがる傾向。
とはいえ、一方で「丁寧なくらし」という概念?は「イズム」にやや「かわす」方向で(丁寧なくらしに疲れるというのもあるみたいで、これは「イズム」に当てられた?)プロセスに注目した形であるのだろうか。動画でも「ルーテイーン」動画があったり(一時、結構観ていた)「結果」至上主義から「道中」を楽しむ。
何にせよ、「少しは自分でやったら?」というのが自分の中で頻繁に感じることだ。外部委託(料理、掃除、教育、介護、ゴミ処理、狩猟採集、冠婚葬祭・・・)が過ぎる。それを「産業の洗練化」「資本主義の結果」とすればそうなのだが、それを「やりすぎ」で個々人が「できる」ことまで外部が代行することで「無能」になり「鈍感」になり他者への共感も減じるのではないか?坂口恭平兄さん風に言えば「生活水準は下げて、自分の水準を上げろ」だ。
自分でできたら楽しいと思う。そして「大人になった」と実感するのかもしれない。大人になるためのアナキズムでもある。