「くらしのアナキズム②」
「ホッブズは、戦争状態を抑止し、危機に対処するためにこそ、主権国家が必要だと説いた。だが歴史的にみれば、国家は人民を守る仕組みではなかった。人びとから労働力と余剰生産物を搾りとり、戦争や疫病といった災厄をもたらす。国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。」
『くらしのアナキズム』松村圭一郎 ミシマ社 p35、36
ウエストファリア条約以降、「国民国家」って概念が原始国家システムに上塗りされたんだろう。今、私たちが「国が国民の生活を保障すべきだ」という理屈は江戸時代初期にヨーロッパで血みどろの最後の宗教戦争を終えた頃にできた考え方からきていると、踏まえた上で言っている人はほとんどいないだろう。
でも、「今、私たちが立っている場所は果たして、どこから来たのか?かつて、そして未来も「絶対的で普遍的な視点」だろうか?」という疑念、相対化が必要だと思う。60年代に勃興した「構造主義」も半世紀が経つが、未だに「常識」になっているとは思えない。「人それぞれ」と日常的には何気なく使うが、ラジカルな部分では全く。深部まで浸透していないだろう。
原始「国家」の成り立ちを知ると、全然「国は国民の生活を保障する」義理がない。ことを知る。強いて、言えば「生かさず、殺さず」を続けるのが最適となる。フォーデイズムと大して変わらない。
21世紀の国民国家として、あるいは日本という国単位で言えば、経済という概念、考えを改めることだろう。そして、マルクスの言うように「労働時間の短縮」が必要だろう。日本列島は「日本」という国家(擬制)のものでも、そこに住むホモサピエンスのものでもない。森ビルのものでもないし、国有地ってのも無い。あんたのものでもないし、私のものでもない。ただ、「物質代謝」をする土地があるだけ。カムイが宿る場があるだけ。コモンである。エンクローズするもんでもない。slave of キャピタリズム から脱しないと。