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人生が、創造したがっているもの。
精神科医ヴィクトール・フランクルが、ナチスの強制収容所に収監されたときの体験記「夜と霧」に、次の文章がある。
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。
すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。
色々な人の話を聞いていると、一つ一つの現実の事象の奥に、「その人の人生が創造したがっているもの」の存在を感じる瞬間がある。僕が「それ」を感じるというよりも、話し手自身が「それ」の存在に気づいていく。
本来、人間は自由に思考していいし、自由に行動していい。ただ、現実の一つ一つの行為の奥には、何か根源的な願いのような「それ」が存在する気がしてならない。これは、物凄いシンプルなものだ。
「それ」は複雑なものではなくとてもシンプルなものであり、かつ忘れているようでいて、どの人生の瞬間も、横でささやいているような存在だ。ヴィクトールフランクが語ったように、人生に何を期待するかではなく、人生から何が期待されているか、なのだろうか。
「それ」は、個人の意識的思考よりも、はるかに幅広く、奥深いところに存在する。誰しも何十年も生きてきて様々な体験をしている。その奥に、何も存在しない、という方が無理がある。
話が変わるが、創り手の話を聞いていると、「私は何もやりたいことなどない」「エゴを外し、無で作っている」という人もいるが、実際問題、その人の作品を引いてみると、何かのメッセージのようなものを感じざるを得ないことはよくある。作家性、と呼ばれるものだ。
人の人生を変えられないように、表面的に変遷しているようにみえても、その奥に流れるメッセージは変わらないのかもしれない。
人生が創造したがっているもの、そんなもの思い込みかもしれないし、いつも考える必要はないが、人生のあるポイントにおいては、「それ」があるとしたら一体何なのか、自分自身に問うてみると新しい発見があるのだろうか。
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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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