
受けたもう、の精神で。
今年はじめ、僕は、大きな思い込みをしていたことに気がついた。それは、
「過去、いつも自分の頭で何をすべきか考え、意思決定してきたし、そうすることが大事である。」
という思い込みだった。大学で物理学を学んだのも、大学卒業後に離島にいったのも、震災後に東北にいったのも、その後コンサルティングファームやデザインファーム、そしてアーティストになることを選んだのも、すべて自分で決めていた、と思い込んでいた。
でも、昨年末くらいから、言葉が消えていく感覚が加速されていく中、こういった感覚が薄くなり、何も決めず、流されるままに、受け入れる、という感覚で生きてみている。そうすると、本当にいろんなお誘いなどをいただいて、まったく想像しなかった展開に自分がいることに気付く。
ただ、である。これを体験してみて気付いたのは、元々そうだったということだった。自分で決めたと思いこんでいたものも、すべて微細に観察すると、何らかのきっかけがあった。背中を押される瞬間だったり、何か気付かされる瞬間だったり。
起きていたことは、「考えて、決めた」ではなく、「何かの流れを感じた時に、その流れに身を委ねることを受け入れた」だけなのだけれど、その最後の一瞬だけを切り取って、「自分で決めた」と勘違いしていたのだ。
振り返ると、離島にいったのも、東北にいったのも、コンサルにいったのも、デザインファームにいったのも、全部、実は誘われていて、その流れに身を委ねたに過ぎないのである。アーティストだけ違うように見えるが、これもいろんなきっかけがあった。ただ、流れを受け入れていただけなのだ。
こう気付いてから、身体からとても力が抜けた。以前、僧侶の藤田一照さんが、「order and control」から、「sense and allow」へ、とおっしゃっていたことを思い出す。そうなんだよね。そう、そして僕はこれからどこへ流れていくのだろう。何も決めることなく、流されるところへ流されていく、それが楽しみだ。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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