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幸せへの道を阻む、リアリティに触れる怖さ

幸運なことに、僕は人生を重ねるごとに幸せ度が高まっている。不思議なのは、収入が高くなっているわけでも、地位や権力が高まっているわけでもないこと。今も昔も悩みばかりの人生なことは何一つ変わっていない。

根本的に解決できていない課題もある。にも関わらず、根底では明らかにずっと幸せなのだ。昨日とても印象に残る話を聞いた。それは、

「何々が出来たから人は幸せになる、とよく言う。収入や地位や目的達成などだ。でも違う。幸せだから、成果も出るし、成功するし、収入も上がる。つまり、因果関係が逆だ」

という話だった。僕は20代のときの方が収入もあったし、メディアにも取り上げられることも多かった。でも明らかに今の方が幸せだ。

なぜ今の方が幸せなのか、色んな理由が考えられるが一つ思い至ったのは、リアリティに触れられる領域が増えていること。現実を直視できる領域が増えたと言い換えても良い。以前は、怖くて見れないし、触れられない領域がも多かった。

過去を振り返ると、必ず人生が好転する前には、リアリティを直視する瞬間があった。はじめ、それは絶望に思える。例えば、自分は世界にどうしようもない怒りを持っていて、その奥に人間として欠落している感覚と深い悲しみを持っていたこと。

また他者から認められず、居場所もなく、苦しい人間関係があった時、それは結局自分自身がその構造を作っていると認めざるをえなかったこと。自責の感覚を持どうという話でなく、現実としてそうだった。見たくも、聞きたくもない現実を直視せざるをえなかった。

一方、長年好転していない領域がある。最近それに気づき、3領域の人生の課題を設定した。一つは食であり、一つはお金に関することだ。そして、これらの好転していない領域について丁寧に観察すると、信じられない事実に直面した。

それは、現実がどうなっているのか正しく理解できていない、という事実だった。面倒だから、苦手だからと様々な理由があるが、いずれにしろ現実を直視できていない。現実が正しく分かっていない。したがって、当然の帰結として、状況が良くないということになる。

結局、食もお金も現状を直視するとは、内面の写し鏡を観ることになる。これを知ることを無意識に避けていたのだろう。これまでの経験から、短期的にいくら苦しかろうと、真実が明らかになることは長期的にはいい方向にしか向かわない。なぜなら真実が顕わになると、その奥に潜んでいる、生の衝動が顔を出してくれるから。

後悔するのはいつも、向き合う勇気を持てなかった時。そうならないよう、一つ一つ現実を直視することから始めていきたいと思う。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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