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コンテクストは美味しい

30歳を越えたくらいから、ものごとを深く味わうことが少しずつできるようになってきた(気がする。)

同じ食事でも、思い出に残る食事もあれば、何も印象に残っていない食事もあるのはなぜだろう。
家で簡単につくるカップヌードルはただ腹を満たす作業って感じるのに、キャンプで夜中に食べるカップヌードルはなぜ美味しいのだろう。

SNSに写真を上げるため、誰かが行った話題の場所に自分も行ったという事実がほしいため。そんな、何かの目的のための手段としての消費ではなく、ただその瞬間その行為を楽しむための味わい方について考えてみたい。

僕がルーブル美術館に行ったとき、かの有名なサモトラケのニケ像のエリアで警備を担当しているガブリエルはこう語っていた。

「多くの人が写真だけ撮ってすぐに行ってしまうのが残念。彼らは本当の意味でアートを観ていない。みんながもっとHumanityに対して尊敬の念を持ってくれたら嬉しい。時々、彼らは彼ら自身にもRespectを持っていないのではと感じる。」

像が一番良く見える角度に僕が座って、時間をかけて下手くそなスケッチを描いていたのもあって、声をかけてくれたのだと思う。同じようなことが、モナ・リザの展示室でも見られた。多くの人が自分の目で絵を観るよりも早く、スマホを取り出して写真を撮る。人によってはモナ・リザの前に立っている自分のセルフィーだけを撮っていく。短い人生、たくさんの思い出をアルバムに残していくという楽しみ方も否定はしないが、もっと深く感動を覚えるような鑑賞の仕方もあると思う。

虎ノ門ヒルズに「ELEZO GATE」というジビエ料理を出す素敵なレストランがある。ある日のランチは肉がゴロゴロ入ったラグーパスタだった。出来上がりは一見シンプルで、シェフも「牛と豚と鹿肉を使ったラグーパスタです」と言ってサーブする。味ももちろん美味しいのだけれど、よく考えたらこれってかなり手間がかかったメニューな気がする。種類も部位も違う肉を、それぞれを適切な時間煮込み、最後にひとつのソースにまとめるまでには多くの時間がかかるはず。そう思ってシェフに聞いてみると、まさにその時が翌日のランチに向けた仕込み中で、3種類の肉を何時間もかけて焼き目をつけ、煮込み、仕上げていくことを教えてくれた(レシピを聞いてもとても家では再現できない。)さらには、「ELEZO GATE」の大事にしている価値が生命へのRespectであること、北海道・十勝でなぜ、どうやって狩猟を行っていて、なぜお店のロゴがオオカミなのかなどを嬉々として教えてくれた。

僕の主観だけれど、料理もアートも、舌や目で味わうだけでなく、そのコンテクストを深く知っていただくことで感動の深さが全然違ってくる。味が変わるはずはないのだが、微細な違いに集中しようと思う分、味覚も鋭敏になっているように思う。作り手から直接想いを聞けたときはなおさらだ。

せっかくいただくのであれば、作業的に消費するのではなく、深く味わい尽くしたい。大事なことは心ここにあらずではなく、心を今その場に置く、ということだと思う。

國分 功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』では、観念を対象とする”消費”はいつまでも満足が得られず、退屈が終わらないこと。自分を訓練して眼前のものをきちんと受け取り、深く享受することの価値などが論じられている。

高級レストランに行っても深く味わえないこともある。大衆店に行っても深く感動を得られることもある。豊かにすべきはお財布よりも感受性であり、コンテクストごと深く味わい尽くすためのコツは一歩踏み出す勇気とコミュニケーションだと、僕は思う。まだまだ人生経験乏しい若造だけれど!


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