ジャンル分け論 文学とかメタルとか
大抵のジャンルに於いて、初期のものは、後代のものを特に愛好する者にとっては退屈だったり欠陥が多かったりする。一方で、初期のものには後代のものにはない味がある。何故このような事が起こるかと言えば、一般にジャンル分けとは、後代のものを知る人間による後付け的抽象化だからだ。そして、特定の成分の抽出である故に、ジャンル内での発展とは先鋭化の歴史である。影響を受けた者が開祖や先代の作品の「余計な部分」を削ぎ落としてジャンルの成分の凝縮される方向に先鋭化していく。ジャンルの発展とは何かを獲得していくと同時に別の何かを失うことだ。(「現代のクリエイターの作品を鑑賞すれば、このクリエイターに影響を与えた過去の作品の全てを鑑賞したことになる」と考えるのは正しくない。) また、このジャンル発展の過程では、クリエイター本人がジャンルを意識する場合もそうでない場合もあるだろう。
例えば、ポーは、現代の推理小説のモノサシで一方的に測れば欠陥が多いが、しかし、彼の作品群には後代の推理小説にはない「ポーの味」がある。詩人としての象徴主義的表現や、くどくどしいとも言える程に述べられる推理哲学がそれだ。そして、後代のドイルやクリスティや乱歩が無味簡素とは言わないが、しかし、彼らの作品は「推理小説として先鋭化された」ものだろう。
また、音楽で言えば、メタルの始祖Black Sabbathの初期作品は、21世紀のメタルを特に好む者にとっては刺激が少ないが、しかし、他のバンドにはないサバスの味がある。あのベースとドラムの成す狂気とも言えるグルーヴ感は唯一無二だ。後代の人間が勝手に後代のメタルのモノサシで測って「退屈」だとしても、サバスは後代のメタルの方向性など知らずに初期作品を作ったのだから当然である。
ここまでの話から拡張して考えるに、「初期」を「先代」に置き換えて、ジャンルの歴史というものを「先代」「後代」による相対的なものとみなせる。時代が変われば、現在「後代」とされているものもまた「先代」となり、それが繰り返される。Black SabbathはMetallicaにとって先代だが、MetallicaもまたSlipknotにとっては先代であり、SlipknotもAnimals as leadersにとっては先代だ。そして、先代・後代が相対的なものである故に、「ジャンル内先鋭化の過程で削ぎ落とされてきた先代の持つ味」は全てのアーティストが持つ事になる。2021年の我々にとっては「刺激的なだけで風情がない流行モノ」だと感じる2021年の作品にも、2051年の人間にとっては懐かしまれる味がある。
全ての作品に持ち味がある故、純粋にジャンルとして分解しうる作品はない。「その作品一つのみを含む」というような無意味なジャンルを考えない限り、ジャンルは作品そのものには決してなりえぬ。また、発展とは、ある単一のジャンル内のみでの発展でなく複数のジャンルに跨った発展となるのこともあるだろうし、ジャンル分けは人によって異なるだろう。結論としては、「現実をどれほど反映しているか分からない上に人によって意見が割れる」ジャンル分けという抽象化の操作を過信しないことだ。ジャンル分けに基づく芸術評論ばかり読むより、個々の作品自体を自分で鑑賞する方が深く世界を知れる。
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