私訳:T.S. エリオット『荒れ地』(1922年)より「死者の埋葬」の冒頭部分

一 死者の埋葬(1/4)

四月は一番残酷な月だ。
死んでいた土地にライラックを育み、
記憶と願望を混ぜ合わせ、
眠っていた根を春の雨で起こしていく。
冬は僕らを暖めてくれた。
忘却の雪で地面を覆い、
乾いた塊茎で小さな命を養っていた。
夏は僕らを驚かせた。シュタルンベルクの湖は
夕立に見舞われた。僕らは並木で雨宿りをし、
日が出たところでホーフガルテンの庭園へ向かい、
コーヒーを飲み、一時間くらい話していた。
「ロシア人などではありません。リトアニア出身でも生粋のドイツ人です。」
〔彼女はドイツ語でそう言ってみせた。〕「子供の頃、大公のところ、
従兄弟のところにいたのよ。彼は私をソリに乗せて連れ出してくれたけど
私は怖がっていたわ。彼は「マリ―、
マリ―、しっかり捕まって」と言って、私たちは一緒に滑り降りたの。
あの山へ行けば、あなたも自由になった気がするはずよ。
夜はずっと本を読んでいるの。それから、冬になったら南へ行くのよ。」


【荒れ地】(The Waste Land)
・エリオットは「荒れ地」(Wasteland)のタイトルをジェシー・ウェストン(1850-1928)の聖杯伝説研究に帰している。聖杯伝説における聖杯探しのプロジェクトは、ロンギヌスの槍による漁夫王(フィッシャー・キング)の癒えない傷を癒すために実行されたものである。漁夫王自身の状態は彼の王国の状態と連動しており、漁夫王が傷に苦しむ間、かつて肥沃だったその国は「荒れ地」になり果てる。

【ライラック】(Lilacs)
・冷涼な土地を好む低木で、春になると香りのよい白や紫の花を咲かせる。元々はヨーロッパの北方に生えていたものであり、踏み込んだ解釈として、ドイツの思い出を蘇らせた暗黙のファクターとみなすことも不適切ではない。
・ちなみに、ドイツでポピュラー・ソング「またライラックが咲いたなら」がヒットするのは、エリオットがこの詩を発表した数年後の出来事である。

【春の雨】(spring shower)
・詩人チョーサー(1343-1400)の『カンタベリー物語』は「四月は芳しい雨で/干からびた三月を根まで貫き/一つ一つの葉脈が浴びる潤いには/花を咲かせる力がある」(Whan that Aprille with his shoures soote, / The droghte of March hath perced to the roote, / And bathed every veyne in swich licóur / Of which vertú engendred is the flour)とある。

【小さな命】(a little life)
・塊茎(tubers)は球根(bulb)とは違うものであり、芋をイメージするのが手っ取り早い。
・「小さな命を養う」という文句は、詩人ジェイムズ・トムソン(1834-1882)の「母なるものは私たちの小さな命を養い/今度は私たちが死をもって母なるものを養う」(Our Mother feedeth thus our little life / That we in turn may feed her with our death)との類似が指摘されている。ただ、ここでの「小さな命」は「塊茎」によって養われるため、直に「私たち」の命と取るのはやや不格好である。むしろ、これは(少なくとも表層的には)春を待つ植物の命のことを言っているのか、塊茎を食べて冬を越す動物の命のことを指しているように見えるが、特定するほどのことではないかもしれない。
・降る雨に対する積もる雪、地表の根に対して地中の根、という形で春の景色から冬の景色への移行は下へ視線を引き上げていく。そこにパッと夏の記憶が現れるという次第である。

【夏は僕らを驚かせた】(Summer suprised us)
・現在形の春から過去形の冬、さらに過去形の夏と遡る表現。春を目の当たりにして終わりつつある冬と比較しようとした瞬間、想起が加速して夏の一場面まで飛んで行ってしまうという意識の流れがこの数単語で巧みに表されている。
・シュタルンベルク湖とホーフガルテンはどちらもミュンヘン絡みの場所だが、両者の間は20-30kmほど距離がある。したがって、この二つの地名によって、出発の時点とコーヒーを飲む時点の間の少なからぬ時間がカットされ、場面がジャンプした印象を受けることになる。

【ロシア人などではありません】(Bin gar keine Russin; I’m not Russian at all)
◯モデルと創作
・この発言は「私たち」(we)の会話の一部であるが、結論から言えばこれはエリオットが誰かとした実際の会話の引用ではなく、この「私たち」は作品外部のエリオットたち自身を指しているのではなく、作品の登場人物としての「私たち」を指している。
・ただし、この会話には明確なモデルが存在する。この台詞の語り手の「マリ―」は、(エリオットが実際に会ったことのある)マリ―・ラリッシュ(Marie Larisch, 1858-1940)がモデルであり、その後の「大公」あるいは「従兄弟」は、マリ―の従兄弟であったオーストリア皇太子ルドルフ(Rudolf von Habsburg-Lothringen, 1858-1889)がモデルである。
・このモデルに対し、会話に架空の要素が入っていると判断できるのは、「リトアニア出身でも生粋のドイツ人です」という台詞からである。史実からいえば、マリ―とルドルフはそれぞれアウクスブルクとラクセンブルクの出身であり、リトアニア(あるいはバルト三国)との関わりはない。
・エリオットがこの台詞に組み込んでいるのは、ドイツ系リトアニア人とロシアの同化政策の歴史だと推測できる。
◯ドイツ系リトアニア人の歴史
・現在のバルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)のあるバルト海東岸地域は、中世のドイツ騎士団の植民活動以来、ドイツ人(バルト・ドイツ人)が移住・定着してきた地域である。
・このうちリトアニアはポーランドと一体化し、16世紀よりリトアニア=ポーランド共和国として栄えるが、18世紀にプロイセン・オーストリア・ロシアによって分割され、固有の領土を失った。この際、リトアニアの大半はロシア帝国領となったため、ドイツ系リトアニア人はロシアの支配を受けることになった。
・ロシアへ編入された後も、ドイツ系リトアニア人のコミュニティは19世紀末まで自治を維持し、文化的なアイデンティティを保っていた。しかし、1880年代になるとロシアの同化政策に晒されることになり、そのコミュニティはロシア化を強いられることになった。
・「ロシア人などではありません。リトアニア出身でも生粋のドイツ人です。」という台詞はドイツ語で語られている。このことは、(登場人物としての)マリ―は単に自己紹介をしているのではなく、ドイツ系リトアニア人がドイツ語でアイデンティティを宣言する際のお決まりの文句を披露していたと取るのが自然だろう。

【大公のところ、従兄弟のところ】(arch-duke’s, My cousin’s)
・「大公」はハプスブルク家の領主のために発案された称号だが、慣習としては継承関係に関わりなく全ての男性メンバーに用いられるようになった。すでに指摘した通り、「大公」のモデルはルドルフ皇太子である。「大公」から「従兄弟」への言い換えるのは、歴史的にはルドルフがマリ―の従兄弟であったという事実を採用したものと言えるし、修辞的にはかつての華やかな生活と自分の近さを再確認することで一種のノスタルジーを表現しているとも言える。

【冬になったら南へ行くのよ】(go south in the winter)
・本を読む(read)は現在形と過去形が同型であるため、「その夜はずっと本を読んだわ」とも訳せるかもしれない。これは話題の転換をどこで取るかという視点次第である。
・南へ行くという現在形を記憶への没頭からくる現在形と取る可能性については、冬にはソリ遊びをしていたという記憶との整合性を取りにくい。この「冬」は会話をしている夏の後に来る冬のことと考えて良いだろう。
・また、南へ行くというのは暖かい地域に行くということであり、冒頭でライラックを眺めている土地と大公との思い出の場所に共通する雪国という環境との対比が成り立っている。さらに言えば、「私たち」が会話しているミュンヘンも雪の降る地域である。

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