ちょいダサというやつしの美学
最近、お菓子マツザワの理念であったり、イメージを他の人に質問される機会がちらほらあった。
もちろんそんなときは作っているお菓子のテーマであったり、目指していることを答えたりするのだが、最近自分の中でしっくりくるフレーズを見つけよく使っている。
それは、
「お菓子マツザワは、ちょいダサです。」
説明するまでもないが、ちょいダサとはちょっとダサいという意味である。
いや、ダサいて。
謙遜のし過ぎなのか、あるいは自己肯定感低すぎなのか、いずれにせよその言葉の第一印象から他者がポジティブな解釈をすることは難しいであろう。
しかしマツザワは、この「ちょいダサ」というフレーズをいたく気に入っている。
なぜなら、ちょいダサとはマツザワの好きな言葉の1つである「やつしの美学」に通ずるものがあるからである。
「やつしの美学」とはなんぞや。
ときは今から10年以上前に遡る。
当時私は現役での大学受験に失敗し、地元長野の予備校で浪人生活を送っていた。
浪人生という、高校生でも大学生でもない微妙な立ち位置に居心地の悪さを感じつつ、志を同じくする長野県内から集まりし見ず知らずの若き有志達と、見えない連帯感を抱きながら勉学に勤しんでいた。
そんなある日、古文の授業を担当していたちょいワルじぃちゃん先生が授業中の雑談でこう話し始めた。
「人間着飾ってるのがいいってわけじゃねんだ。身をやつすことでそいつの生き様が表面に現れてくるんだ。これをやつしの美学っていうんだ。」
なんかもっといろいろ話していた気がするし、なぜこの話しになったのかも覚えていない。
しかし当時の予備校講師陣のキャラクターがそろいもそろって濃ゆすぎて、もう先生のキャラの方が気になっちゃって、授業の内容が全然頭に入ってこなかった私からすると、ちょいワルじぃちゃん先生のこの一言はかなり印象的だった。
身をやつす、か。。
身をやつすとは簡単にいうと、質素な身なりをする、というような意味であるが、この言葉を私はそのとき初めて知った。
そして、浪人生になっても厨二病をやや引きずり気味であった私はなんだかそれがものすごくかっこいいことのように思えた。
自分をよく見せようとするのではなく、あえて質素にシンプルでいることで、その人本来の輝きが見えやすくなるなんて、めちゃかっこよくないか、?
光れ泥団子的な、。?(曲解)
それから時は過ぎ、曲者講師陣(失礼)のおかげで無事志望校に合格し、上京したマツザワは、1番女盛りの20代を芋くさく過ごした。
芋くさく過ごしたのは決して故意ではなく、大学デビューをもってしても元来の芋くささを取り除くことができなかったという田舎者の悲劇であるが、幸か不幸か、それは身をやつすことにもつながっていた。
いつだって私は芋くさく青二才であった。
そう、等身大であった。
等身大でぶつかるがゆえ、様々な局面で何度も玉砕されぶちのめされたが、今振り返るとそれはそれで恥ずかしくもあり、いい経験であった。
そして迎えた30代。
マツザワはいまだに芋くさく、青二才で、若干厨二病である。(マジかよ)
つまり、ちょいダサだ。
ちょいダサのマツザワが作ったお菓子は正直華には欠ける。
しかし、今自分がおいしいと思える等身大のお菓子を作っている。
身をやつすとは、意識的に質素にすることであるため、等身大がちょいダサなのは本物のちょいダサやんとも思わんでもないが、私はこのちょいダサ加減を気に入っている。
着飾ることもたまにはいい。
お出かけの日は、お気に入りの服を着て、メイクも気合いを入れたい。
でもオフの日は部屋着でコンビニに買い出しに行っちゃうぞ。
そんな塩梅が心地いいのではないか。
飾らないありのままの、ちょいダサのマツザワのお菓子が、皆さんの飾らない日常の中に溶け込んでくれることを願っている。