ヨコのかたな史②鎌倉初期~中期
刀の勉強を始めると、大体の書籍で出てくる伝法や刀工の並びが時代を追ったタテ方向で、それがみっちりバラバラに詰まってくるから焦点分かんない! ってなる事、結構多いと思うんです。姿の変遷も時代順で覚えないといけませんしね。
ヨコの~史は、特定の時代や時期を区切ってその世界を一気に輪切り!
同じ時期、時代に別の場所で何が起こっていたか、何と何が同じ時代の事だったのか、前後の時代と関係してくるのか……などを見るのに便利な方法です。
前回使い損ねた画像↑ こんな感じの見方です。
今回は、前回に続いて鎌倉時代初期~中期(ほぼ鎌倉時代前半)を見てみたいと思います。
鎌倉時代の始まり
さて、今回は鎌倉時代に入っていく訳ですが、ちょっと鎌倉時代という時代は刀剣の歴史で見ようとすると結構区分がややこしく、初期、中期、後期、末期……のような細分化がされています。それにも理由はあるのですが、まずは鎌倉時代が始まったという事の意味をおおまかに把握しておきたいと思います。
前回扱った平安時代ですが、かなり長く続いた皇族を中心とする朝廷と貴族文化の時代で、武士に当たる人々も勿論居たのですが数多い人口の構成員の一つのような扱いでした。平安期の武家を源流に持つというのがステータスになる(源氏の某が先祖とかですね)のはもっと後の時代の事です。
これは絵巻物などを見ていても分かる事ですが、武士や武家というのは護衛や用心棒のような存在として描かれる事が多く、その時も使われている武器は弓や槍が多く見られます。
天皇……つまり朝廷から征夷大将軍に任じられた武人が将軍職として権力を持つ、というのがまだ明確に分かたれていない頃です。将軍職の地位に居る人間は居ても幕府はない、そんな感じで考えてみましょう。
そこに大きな変化が訪れます。
鎌倉時代、つまり鎌倉に将軍職にある人間がトップとして政治を行う幕府が建てられたのです。貴族と武家の明確な差異が表れ始めます。平安期には護衛の為だった武力が直接の戦闘力として確立されます。当然、そこには武器が必要になりますね。弓や槍は以前からありましたし、太刀などの刀剣も貴族が主に持って使ったりしていましたが、今度は武士がそれらを武器として持つ事になります。
この時、幕府が開かれた事で鎌倉(相模=相州)に鍛冶が置かれ、後の相州伝を作る事になりますが、それはまた違うお話で……。
①幕府成立~承久の乱まで 鎌倉初期
鎌倉に幕府が作られてすぐの頃は、まだ朝廷の力も強く残っていました。この頃、壇ノ浦の戦いで三種の神器の一つである草薙の剣を失ったまま天皇に即位したのが後鳥羽天皇です。退位した後、後鳥羽院として御番鍛冶を招聘した人物として名が通っていますね。
剣を欠いたままでの即位にコンプレックスを持っていたと言われる後鳥羽院ですが、院内で鍛刀する為に当時の作刀の名地から刀工を招聘した為、御番鍛冶に任命された刀工は、並べて当時のそれぞれの地域を代表する刀工ばかりでした。
謂わばこの初期は、御番鍛冶に選ばれるような刀工達の時期、とも考えられます。
・山城(京都)
粟田口派が出てきています。久国を含む六兄弟が有力で国安、国友が御番鍛冶になっています。鬼丸国綱の作者として有名な国綱も時期的にはこの初期に入りますが、後に鎌倉入りして作刀しています(鬼丸も北条氏の為に作られたものと言われる)
・備前(岡山東部)
古一文字派が興っています。古備前から続く土地ではありますが、作風は一段と映りが強くなり、細かな沸出来だった古備前に代わって匂出来のものが出始めます。ただ、古一文字と古備前は非常に似た作も多いです。
この時期から福岡の地に住んだので福岡一文字とも言います。この一文字派からは則宗、延房、宗吉、助宗が御番鍛冶に選ばれています。
そして一文字派とは別に、備前からは行国、助成、助近が御番鍛冶に入っており、備前からの選出が最も多い事になります。
・備中(岡山西部)
古青江派が続いている地域です。同銘の作者が南北朝期にも居る貞次、恒次が居ます。この貞次、恒次と共に、次家が御番鍛冶に入っています。
※御番鍛冶の編成には諸説あり、一説には40名程の刀工が選ばれ、地方刀工も数名含めてお仕えしていたようなので、上記の12名のみではありません。粟田口国綱も御番鍛冶であったという説があります。
・筑後(福岡南部)
三池派が続いています。特に著名な刀工は残っていませんが、南北朝の頃にまた作風が顕著に出てきます。静かな西国です……。
・薩摩(鹿児島)
波平(なみのひら)派が続いています。この頃には目立った作はなく、鎌倉末期に作風が分かるものが残ります。静かに連綿と続いていますね、西国……。
②承久の乱以降 鎌倉中期
上で出てきた後鳥羽院が執権・北条義時に対して起こした承久の乱。後鳥羽院側がそれに敗れて以降、北条氏による本格的な武家政権が始まります。
刀剣は質実剛健、作刀の技術的にも美観的にも力が向上し、黄金期に近い隆盛を迎えます。
・身幅の広い太刀姿へ
・反りのピークが腰から上へ
・一見して流派が分かる特徴が出始める
・実用のみならず、祈願の為の刀剣も多く作られる(元寇を受け)
……このような特徴が典型例と言えるでしょうか。
・山城(京都)
粟田口派。国綱に加えて則国、国吉、吉光に代が移っています。国吉の鳴狐、吉光の短刀、太刀では一口の一期一振がありますが、時代のメインは太刀と短刀なので、「打刀」の概念がまだない時代で鳴狐の存在は特異ですね。国綱はこの中期に鎌倉入りします。
来派。粟田口派に加えて興った一派です。冴えた地鉄が美しく力強い太刀と短刀が特徴でしょうか。国行、二字国俊(後期の来国俊とは同人、別人説がありますが此処では別人で)が居ます。
綾小路。定利が居るのに加え、一派と見られる者に定吉が居ると言われます。
・大和(奈良)
千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸の五派がこの辺りで漸く出てきます。
大和伝が伝法として明確に出てくる事になりますね。
手掻は包永、当麻国行、尻懸則長など有銘のものが出てくるようになります。
・備前(岡山東部)
福岡一文字派。助真、吉房、吉平、助綱などが居ます。華やかな丁子刃で一世を風靡します。この中期に助真が鎌倉入りします。
片山一文字派。福岡に近い片山に住した一派で、中期には則房が居ます。
長船派。西日本最大級の流派となるものが光忠を祖に生まれます。この世代では後期にかけて子の長光が入ります。景秀も此処に入ります。この長船派を中心に備前伝が展開されていきます。
畠田派。この辺から備前が忙しくなってきます。守家、家助、真守が居て、守家には三代が南北朝まで、真守には二代がおり、家助共に室町まで続きます。
直宗派。一派に太郎国真、次郎国貞、三郎国宗が居て、前の二人には見られる作がないのですが、三郎国宗はこの中期に備前三郎国宗として鎌倉に出て新藤五国光の師となります。「備前国住長船」と銘を切っているので長船に居住したのでしょう。
・筑後(福岡南部)
三池派。安定の三池派です。
・薩摩(鹿児島)
波平派。代を重ねながら続いています。
・相模(鎌倉)
北条時宗の要請で、粟田口国綱、備前三郎国宗、一文字助真が鎌倉入りし、鎌倉鍛冶の源となります。実質的には新藤五国光が祖となりますが相州鍛冶の始まりです。
・奥州(東北、岩手などを中心に)
はい、忘れてはならない鍛冶集団の作がこの時期に出ています。東北地方を中心とした舞草(もくさ、もぐさ)刀と呼ばれる刀剣を作った鍛冶集団です。
特に現在の岩手県一関市に根ざした古い鍛冶集団でもあり、平安期の作は現存せず、鎌倉期の現存作も希少ですが、朝廷への刀剣の献上数も多かったとされます。出羽月山も一派だったと言われます。
深めな作の解説などは↓や「舞草」で検索してみてください。
「舞草刀と刀剣|一関市博物館」
……と、此処で鎌倉中期が終わり、これから後期、末期となり相州伝が始まっていく事になります。
その後期には元寇の影響が入り、刀剣の姿も更に豪壮さを増し、その先の時代区分のものになっていく過程の時期になります。
前述の通り、一見して流派が分かる特徴がそれぞれ出始めますが、挙がった流派を聞いて「あぁ、あんな感じかな?」と刃文や地鉄の様子などが想像出来るでしょうか? それぞれ個性のある流派になってきているので、作風の違いにも注目してみましょう。
地理的分布としては、京都、奈良、岡山を中心に、九州、東北地方にも鍛刀地域が広がっている事が分かりますね。特に九州に関しては平安末から静かに続いている感じがします。そろそろ別の流れも入ってきそうです。
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